蕨の粉 (その2)

蕨の粉 - 国家鮟鱇
いろいろあって遅れてしまったけれど続き。


大きな図書館に行って原文及び学者の解釈を知らべたいと思いつつなかなかできずにいる。Wallerstein氏が原文アップしてるのでそれを引用。
蕨粉と『政基公旅引付』 - 我が九条−麗しの国日本
『政基公旅引付』続き - 我が九条−麗しの国日本


文亀四年(1504)二月十六日条

十六日戊申 雨降、大木村之番頭若崎右近並船淵番頭両人参。自地下申云、去年不熟之故御百姓等繁多餓死了。仍蕨ヲ掘テ令存命之処、件蕨於河流ニ認物也。其粉ハ水ニテ取テ一夜置テ居サセテ取◻(之カ)也。其ヲ連夜盗取之条、適欲継命、食物ヲ失之故、地下人已失懸命術了。仍番ヲ居テ窺見之処、去夜有盗取者。追懸之処、松下ニ瀧宮之第一之御子有宅、其内へ入了。則入内見之処件御子同息子兄弟也。仍母も子も三人共以殺害了。盗人之故也云々。連々彼者盗人之由風聞、則ち此儀出現了。地下沙汰之次第、證人一人モ不生置、母マテ殺害ハ甚乱吹歟。但悪行之儀ハ連々風聞之条、地下之沙汰人已如此沙汰之由注進之上者、無人之時分不及是非、於為盗人者是又自業之所致也。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


永正元年(1504年、文亀四年は二月二十九日に永正に改元)三月二十六日条

二十六日戊子 晴、去夜又蕨之粉盗人有之。見付而追入家内殺害了。寡婦両人也。其外十七・八ナル男子、其外年少之子共、夜前モ六・七人殺之云々。不便不便。盗人之上者不及是非者也。


で、本郷先生の『武力による政治の誕生』にはこう書いてある。

 一五〇四(永正元)年三月、本百姓の正円右馬という者が米俵をだまし取った嫌疑を掛けられた。右馬の弟は高野山の下級僧侶で、さまざまに奔走したが、結局、右馬は証拠不十分のまま、斬首に処せられてしまう。容疑者の逮捕と拘束、量刑の勘案と確定、それに執行。すべては百姓たち自身が行っており、とくに警察権に相当する行為の先頭に立ったのは、体力に優れた若い者であった。
 右馬の場合は正式な村落構成員であったから簡略ではあっても裁判のまねごとのような儀式を経て刑が定められた。ところが相手が非構成員であると、若者の暴力がより直截に振るわれている。右馬の事件が露見する二日前、寡婦二人が蕨の粉を盗んだ。蕨の粉がどういうものかは分からないが、少なくともさほどうまいものとも、貴重なものとも思えない。働き手である夫を亡くした彼女たちは、小さな子どもを抱えてひもじさに堪えかねたのだろう。だが若者たちはこのことを知るや、寡婦の家に急行し、数人の子どももろとも、彼女らを撲殺してしまう。


「一五〇四(永正元)年三月」にあった右馬の事件の「二日前」なので、これが「永正元年三月二十六日条」に記されていることは明らか。確かにこの記事だけを見れば寡婦2人が蕨の粉を盗んだことはわかるが、蕨の粉がどういうものかは分からない。


しかし、二月十六日条の記事を見ていれば、蕨の粉が貴重なものであることは明白だ。つまり本郷先生は三月二十六日条の記事だけ読んで、その前の記事を読んでいなかったのか、読んでいても二つの事件を繋げることができなかったということになる。


これは少し前の「馬足形」の件で『満済准后日記』において、本郷氏が足利義持のおできと解釈したものが、日記の少し前を読めば満済のおできであることが明らかだったのと同じパターンだ。


そして、もちろん史料を読んでいなくても大屋先生のように蕨の粉がどんなものなのかを考えることによって貴重なものであることを推測することも十分可能なのであった。



ところで、この件についてはまだ他にも考えるべきことがあるように思う。