蕨の粉 (その11)

以上で本郷氏の文章に対するツッコミはほぼ終わり。あとは自分が思うところを書いてみる。


前に右馬の「処刑実行は突発的に決まったと考えられる」と書いた。なぜそう考えるのかというと、処刑実行予定日が3月26日、すなわち2人の「寡婦」が蕨の粉を盗んで殺害された日だから。

二十八日庚寅晴。定雄申して云く、定使弥次郎申して云く、一昨夜、菖蒲村若衆等、盗人共誅罰せしむるの次でに、正円右馬も同じく沙汰すべきの由、相企つるのところ、かの右馬の舎弟に高野聖あり。その者、乞ひ請けてまづ延引せしめ了んぬ。
(『新修泉佐野市史』以下同)

すなわち「寡婦」の処刑のついでに右馬も殺そうとしたということであり、前々からこの日に予定されていたのではないことがわかる。


しかし、いつ事件が発生し、いつ処刑という結論が出されたのかは、これだけではわからない。

一昨夜すでに地下として沙汰すべきの由、企つるの条、勿論なり。

正円右馬、条々の所行、その隠れなきより。よって召し籠め了んぬ。第一、地下として一昨夜差し寄せて誅すべきの由、相企つるのところ、弟の高野聖申し請ふにより閣(さしお)くの事、

とあるので、拘束はそれより前にされており、26日に処刑が決まって、さらに実行されようとしたということなのかもしれない。


だとすれば、蕨の粉の盗難事件があって「寡婦」の処刑があり、そのついでに右馬はどうしようかという話になって処刑と決まり、実行しようとしたところ弟の抗議で延期になったということかもしれない。だけど確実なことは言えない。『新修泉佐野市史』の解説では

永正元年三月二六日の夜、菖蒲村百姓の正円右馬が同じ百姓の亀源七の米一俵を盗もうとしたとして捕らえられた。

と当日に拘束されたとしているがこれは疑問。なぜなら弟は高野山に住居していると考えられ、26日の夜に全ての出来事があったとしたら村に来ることは不可能だと思うからである。たまたま村にいたという可能性もなくはないけれど、それを証明するものは何もない。なおここでの「三月二六日の夜」というのは26日の夜明けより前ということだろう。


さて、そこで考えなければならないのは、もし仮に右馬の処刑が26日に実施されていたとしたらどうなったかということ。当然そのことは九条政基に報告されるはずだ。『旅引付』に、

二十六日戊子 晴、去夜又蕨之粉盗人有之。見付而追入家内殺害了。寡婦両人也。其外十七・八ナル男子、其外年少之子共、夜前モ六・七人殺之云々。不便不便。盗人之上者不及是非者也。

とあるけれど、右馬が処刑されてたとしたら「夜前モ六・七人殺之云々」が「七・八人殺之云々」ということになっていたかもしれない。ただし、「六・七人」と殺した人数が確定していないというのは不思議な感じもするので、もしかしたら右馬を加えたら七人という意味だったのかもしれない。


すると「夜前モ六・七人殺之云々」というのは「寡婦」の蕨の粉盗難事件に連座して殺されたのではなくて、盗難事件が相次いでいるのでこの際、盗み癖のある人間や盗人の疑いのある人間を一斉に始末してしまおうという話ではなかったかとも思われるのである。