ここまでの要約
- 蕨の粉は貴重なものではない→貴重なものである
- 寡婦は村落の非構成員→根拠不明
- 小さな子どもを抱えてひもじさに堪えかねた→寡婦の子どもだとは書いてない
- 17〜18才の「若者」も殺されている
- 「撲殺」とは書いてない
- 右馬の事件は「露見」したのではない
- 右馬の事件は村人によって解決されたものではなく九条政基が判定を下したものである
- すべては百姓たち自身が行っており→領主の検断と村の自検断の二つがあったと考えられる
- 右馬が直ちに処刑されなかったのは故意か過失か判定する必要があった可能性もある
- 右馬が特別扱いされたのは村落構成員だからではなく弟の背後に高野山・根来寺が控えていたと考えられる
事件から120〜30日以上経った7月(この年閏三月あり)になって右馬の弟(順良)は再び高野山からやってきて事件を蒸し返した。九条政基は最初取り合わなかったが、結局相手をすることになった。この件について
『戦国の村の日々』(東京堂出版 水藤真 1999)は、
政基は相手にしない方針であったが、何分、バックに根来衆・高野山がいるために、順良の訴えを無碍には却下しえず、直ぐには事は解決しなかった。
と解説している。実際、順良の代理人は
と主張している。他にも
然れどもこの谷中百姓等、紀州の働きをもって命を継ぐなり。ここに根来も高野の謂れなき儀なれども、また申しあへば、御領の大事なり。ただ召し合はせらるべきや
かの順良すでに大篇を企つ。根来の悪僧共、小々相語らひ、明日訴陳申し、負けば狼藉に及ぶべき支度と云々
という九条家の家司の信濃小路長盛の発言などもあり、政基の対応次第ではただならぬ事態になる可能性もあったのである。
村人達にとっても、本来この窃盗事件は自分達で解決する、すなわち右馬を処刑した後に政基に報告するだけで良かった事案であったけれども、弟の順良の背後に高野山・根来衆が控えているとあっては政基に報告してその指示を仰ぐ必要があったと考えるのが妥当ではなかろうか。
従って本郷氏の言うような
右馬の場合は正式な村落構成員であったから簡略ではあっても裁判のまねごとのような儀式を経て刑が定められた。
というような話だとは考えにくい。