蕨の粉 (その9)

ここまでの要約

  • 蕨の粉は貴重なものではない→貴重なものである
  • 寡婦は村落の非構成員→根拠不明
  • 小さな子どもを抱えてひもじさに堪えかねた→寡婦の子どもだとは書いてない
  • 17〜18才の「若者」も殺されている
  • 「撲殺」とは書いてない
  • 右馬の事件は「露見」したのではない
  • 右馬の事件は村人によって解決されたものではなく九条政基が判定を下したものである
  • すべては百姓たち自身が行っており→領主の検断と村の自検断の二つがあったと考えられる
  • 右馬が直ちに処刑されなかったのは故意か過失か判定する必要があった可能性もある

 一五〇四(永正元)年三月、本百姓の正円右馬という者が米俵をだまし取った嫌疑を掛けられた。右馬の弟は高野山の下級僧侶で、さまざまに奔走したが、結局、右馬は証拠不十分のまま、斬首に処せられてしまう。容疑者の逮捕と拘束、量刑の勘案と確定、それに執行。すべては百姓たち自身が行っており、とくに警察権に相当する行為の先頭に立ったのは、体力に優れた若い者であった。
 右馬の場合は正式な村落構成員であったから簡略ではあっても裁判のまねごとのような儀式を経て刑が定められた。

既に書いたように、右馬は処刑が決定した後、実施されようとしたところで弟の抗議により延期したのである。ところで、弟の抗議が受け入れられるのならば、そもそも処刑判決自体を止めることはできなかったのだろうか?それは無理だったが処刑だけは何とか食い止めることができたということだろうか?


そのあたりの事情は史料にも書いてないのでよくわからない。ただし見落としてはならない点がある。一つは右馬には大屋右近という兄がいるということ。この兄は「親類として早々成敗すべき無念なり」というようなことは述べてはいるけれど、特に目立った抗議をしているようには少なくとも史料上は見えない。抗議したのはあくまで弟ということになっている。


そしてもう一つ重要なのは弟が高野聖だということ。
高野聖 - Wikipedia
高野聖は遊行者というイメージがあるけれど、この弟は高野山にいたらしい。少なくとも日根野荘に住んでいるわけではなく、村の出身者ではあるが構成員ではない


この弟が3月28日に日根野荘にいたことは確認できる。右馬の件を聞いて高野山から帰郷したのだろう。いつ帰郷したのかはわからない。ただ経緯を考えると米俵盗難事件を知って帰郷し、兄が処刑されようとしていることを知って抗議したのだと思われる。なぜなら処刑実行は突発的に決まったと考えられるので、弟が村にいなかったら間に合わなかったと思われるから(後で書く)。


本郷氏は「右馬の場合は正式な村落構成員であったから」と書くけれど、右馬の処刑が延期されたのは、村落構成員ではない弟の抗議によるものだったのだ。


なぜ、村落構成員ではない右馬の弟の抗議がこれほど重んじられたかといえば、彼が高野聖であり彼の背後に高野山根来寺があるからだと考えられる。