ハリーの父親について

最後の伝え手として 張本勲さんに聞く|NHK NEWS WEB
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記事自体は大変すばらしい。


ただ一点気になることがある。本筋とは全く関係ないのでスルーすべきかもしれないが気になってしまうのが性分なので。

父親を早くに亡くし、母と兄、それに2人の姉の5人家族だった張本さん。あの日、6歳年上の長女・点子さんだけが、勤労奉仕のために外出していました。

最初読んだときには何も気にしてなかった。「あの日」には父親は既に亡くなっていたのだと。ところが、参考までにとウィキペディアの記事を見たら、

終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった[1]。
張本勲 - Wikipedia

と書いてある。そこで?となった。検索すると(ウィキペディアの引用ではない)同様の記事が多数ヒットするので、これはNHK記者の聞き間違いではないか?と最初は思った。


ところが木村元彦氏が集英社新書WEBコラムに書いた2013年の取材記事に

 両親は兄貴と二人の姉、計三人の子どもの手を引っ張って日本に来たそうです。私は来日して一年半後の一九四〇年に広島の大州というところで生まれました。それが大体の生い立ちです。父親は生活のめどがある程度立つと、日本で暮らすための最終的な段取りをつけるために韓国に一度戻りました。少ないながらの財産を処分したり、親への挨拶まわりなどをしたのでしょう。ところが、魚の骨が咽に刺さってそこで急死してしまいます。 一家の大黒柱を失ってしまい、母は途方にくれたと思います。
(無断転載っぽいのでリンクは貼らない)

とある。これによれば、張本一家は日本内地にやってきた当初はまだ定住すると決まっていたわけではなく、その後生活のめどがある程度立ったので、父親が内地定住のために「韓国」に一度戻って、そこで急死したということになる。被爆の前に書いてあるので時期は戦中だと推測される。


先のウィキペディアでは、戦後に半島に戻るために父親が先に戻ったという話だが、後者は内地に定住するために一時戻ったという話で全く違う。


本人がそう語ったのだから、これは後者が正しく、逆にウィキペディアその他が間違っているのか?


ところが、ウィキペディアのリンク先に

戦争の後、朝鮮に帰っていた父が死にました。太刀魚の骨が刺さり、食道が破れたためでした。
熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん 75 : まとめ読み「NEWS通」 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)(インターネット・アーカイブ

と、ここに「戦後」と明記してある(ただし亡くなったのが戦後なのは確かだが。戦後帰国したとも読めるし、それ以前に帰国していたとも読める)。


また

 戦争は終わったが原爆で家はない。東大橋の下に同胞家族らとしばらく住んでいました。おやじは長男だったので先に韓国へ戻ったが死んでしまった。広島から出ていたヤミ船が下関沖で転覆したのを聞いた、おふくろは私らの身を案じて帰国を諦めた。東雲町(南区上東雲)で借りた6畳一間で、親子4人が暮らす生活が始まりました。
人は幸せへ切磋琢磨を 〜張本勲さん古里広島で語る〜 | ヒロシマ平和メディアセンター

という中国新聞の記事がある。なお先の木村元彦氏の記事では

終戦の八月十五日の玉音放送は家にラジオが無くて、後で録音で聞きました。お袋は日本語もできないし、私たちを連れて朝鮮半島に帰ろうかと考えたようです。実際に航行しているヤミ船の乗り場まで行ったのですが、定員いっぱいで乗れず、そうこうしているうちにそのヤミ船が下関沖で転覆する事件なんかがあって断念したそうです。

とあり、ここでは父親の話は出てこない。



ややこしいが、一応まとめると、
(1)NHKの記事は父親がいつ死亡したか明記してないが普通に読めば原爆投下前と読める。しかし戦後だという証言がある。
※ ただ、原爆投下時に父親はどうしていたのかという話が今のところ見つからない。
(2)父親帰国の理由は、「日本で暮らすため」という証言がある一方「先に韓国へ戻った」「帰国を諦めた」という証言もある。

本人の証言が歪曲された可能性も無くはないが、本人の記憶が曖昧な可能性もある。



繰り返すが、こんなことは本筋に関係ないことではある。でも気になってしまうんですね。