『謎とき平清盛』(本郷和人)

謎とき平清盛 (文春新書)

謎とき平清盛 (文春新書)


今年の大河ドラマ平清盛』の時代考証を担当している本郷和人氏の本。既に有名ブロガーをはじめ多くの人がこの本に言及しており、話題に乗り遅れないために読むことにした。


だけど、やっぱり読み始めてすぐに先に進めなくなってしまう。


「はじめに」で

祇王は年の差を越えて、ストレートに、清盛を愛していたと思う。

と書いてあるところで既に躓きかけたが、それではあまりにも早すぎるということと、講義に出席した女子大生の発言ということになっているから、「そうか?」と思いつつスルーした。


しかし、第一章で武田信玄朝倉義景に出した文書の解釈で完全にストップしてしまった。清盛とは関係ないところだけれど、もう我慢できない。



文章の内容を引用すると、

 また巷説の如くんば、御手の衆、過半帰国の由、驚き入り候、おのおの兵を労るは勿論に候、然りといえども、此の節、信長滅亡の時刻、到来し候の処、唯今、寛宥の御備、労して功なく候か、「不可過御分別候」、猶ふと彼の口上に候、恐々謹言、


ネットで検索したところでは原文はこうであるらしい。

又如巷説者、御手之衆過半帰国之由驚入候、各労兵勿論候
雖然、此節信長滅亡時刻到來候処、唯今寛宥之御備労而無功候歟、
不可過御分別候、猶附與彼口上候、恐々謹言、


問題は「不可過御分別候」で二通りによめるらしい。

まずA、「過」を「あやまる」と読んで、「ご分別をあやまるべからず候」。それからB、「過」を「すぎる」と読んで、「ご分別にすぐべからず候」。
 A説なら、意味は、誤った分別をしてはならない。B説なら、行き過ぎはいけません。A説ですと、信玄は怒り、弱腰の義景を叱責しています。この大事にあたり、兵を引くとは何事か!早く兵を戻して、信長と対峙せよ!B説だと、口調は相当に柔らかくなります。兵を労るのは大事ですが、信長を滅亡に追い込む好機です。兵を戻していただけませんか、くらいな感じ。
 将軍である足利義昭が作り上げた「信長包囲網」なるものがあった。とすると、A説の方が都合が良い。信玄の出兵は上洛を意図するものであり、信長との決戦を目的としている。朝倉義景浅井長政は、この解釈では完全な脇役で、信長を滅ぼす主役である信玄は義景を叱りとばせる。ですが、当時の他の文書の様子や、用語法からすると、A説よりもB説である可能性が高そうなのです。
 ここで文書を読む人の「良心」が作用します。AとB、どちらを採った方が面白い解釈にたどり着けるか、はしばし措く、客観的に、どちらで読む方が妥当なのか、を考えます。すると、ここではB説をとらざるを得ない。

以下略すけれど、この後も次から次へと「ちょっと待った」と言いたくなる話が続く。俺はこの文書を初めて原文を読んだんだけれど、どうにも納得がいかない。



まず根本的なところで、なぜ「B説をとらざるを得ない」のか具体的説明が一切ない。もちろんこれは「新書」であり、さらに「平清盛」の話がメインだから、そこまで書く余裕がないという弁解はできるのかもしれない。


でも、それなら最初から書くなって言いたい。中途半端に書かれるとストレスが溜まるではないか。大体、本郷氏はB説が妥当だと言うけれど、それは「定説」なのだろうか?ウィキペディアでは「判断を誤ることなかれ」と訳している。
伊能文書 - Wikipedia


「ソースはウィキペディアかよ」って言われそうだけれど、そう言われたら「じゃあソースはどこにあるんだよ?」って言い返したい。ネットで調べるとA説を採用しているところが多い。それはアマチュア歴史愛好家が俗説を信じてしまっているからなのか?それとも昔はA説が定説だったのか?それとも現在でもA説が定説で本郷氏がそれに異を唱えているのか?そういうことが一切書かれていない。


それに上に引用した文章にはイヤらしさがある。A説を叱責とするのは良いとしてB説だって叱責と解釈することはできる。B説だって「この大事な時に兵を休ませるなんて、そういう場合じゃねーだろ!マニュアル守ってりゃいいってもんじゃねーんだよボケ!」と意訳することだって不可能ではないのではないか?


B説の解説に「兵を労るのは大事ですが」と書いているけれどA説でも信玄はそう言っていることに変わりはない。また「朝倉義景浅井長政は、この解釈では完全な脇役で、信長を滅ぼす主役である信玄は義景を叱りとばせる」と書いてあるけれど、この文書のどこからそう読み取れるのかわからない。


どうもこのへんいわゆる「印象操作」的な感じがする。


で、ド素人の俺はといえばA説の「ご分別をあやまるべからず候」の方がしっくりくる。なぜなら…


長くなったので一旦終了。