「四国征伐回避説」の落とし穴

四国征伐回避説」とは何ぞやという初歩的な話は略。ウィキペディアその他を参照のこと。
本能寺の変 - Wikipedia

明智光秀織田信長の命で長宗我部氏と交渉していたという根拠はどこにあるのだろうか?


その根拠の一つは『元親記』という史料にある。

元親、四国の御儀は某が手柄を以て切取り申す事に候。更に信長卿の御恩たるべき儀にあらず。存じの外なる仰せ、驚入り申すとて、一円御請申されず。又重ねて明智殿より斎藤内蔵助の兄石谷兵部少輔を御使者に下されたり。是にも御返事申し切らるるなり。

また『南海通記』という史料に

天正十年正月、信長の命をもって、明智日向守より使者を下し、元親に達て曰く

とある(以上『だれが信長を殺したのか』桐野作人より)。


しかし、これらは後世になって書かれたものであり、信憑性に問題がある。ところが今回発掘された「石谷家文書」の一つがまさに「斎藤利三書状(天正10年(1582) 1月11日)」である。この書状は明智光秀の家中の斎藤利三が(義父とされる)空然=石谷光政に出した書状である。
林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について ―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー - 株式会社 林原


石谷光政は出家して天正5年前後には紀州根来の智積院に在住していたという。天正10年にもおそらくは智積院にいたのだろう。文書の中身は、石谷頼辰が使者として土佐に赴くにあたって空然がアドバイスしたことへの謝意を示したものらしい。


これにより、『元親記』や『南海通記』の記述は正しかったということに一応はなるのだが…


ただ、疑問なのは、この斎藤利三石谷頼辰・空然と長宗我部元親との交渉は、果たして織田信長の命令によるものなのか?ということだ。


『南海通記』には「信長の命をもって、明智日向守より使者を下し」とあるから、これを信じれば、信長が光秀に命じて、光秀が石谷頼辰に使者として赴くように命じたことになる。


ただし『元親記』によれば、元親との交渉は別の者が行っており「重ねて明智殿より斎藤内蔵助の兄石谷兵部少輔を御使者に下されたり」ということになる。この場合は信長が命じたものとは限らないのではないだろうか?


さらにいえば、『元親記』では明智光秀が命じたように受け取れるけれど、これさえ定かではないのではないか?斎藤利三石谷頼辰・空然一派が親戚の長宗我部元親を心配して独自に動いたという可能性もあるのではないか?


信長(あるいは光秀)が命じたということは今回発掘された史料によって証明されるのか?そこのところを徹底的に検証する必要があるのではないかと思うのである。