久米邦武『上宮太子実録』より

聖徳太子とキリストの関係を述べた箇所
近代デジタルライブラリー」から(俺には読めとれない漢字は●で示す、また誤字・脱字があるかもしれないけれどご容赦願います)

但し爰に怪訝すべきは、厩戸の産に金人の夢を輳合して、救世菩薩の化身となしたるは、救世主耶蘇が馬利の腹に托して、厩にて生るといふ、該教の新約書に似たる事なり。耶蘇基督の初娠は、其母馬利が●を凝らして救世主の早く来らんことを祈りしに、俄に室内光輝き、天使忽然と現れて言ふ、汝は婦人の中にて祝はるる者なり、汝は姙みて男子を生むべしとある、金色僧の夢は是に克肖たり。又基督が授洗者約翰(ヨハネ)より洗礼を受くるとき、精霊は鳩の形となりて天より飛降り、虚空に声あり、約翰これを目●したれば、是より基督を救世主と人にも知らせたりとある、太子産時の現象は是に相似たり。又伝暦に胎内の声といふは、馬利が初娠のとき、天使より石婦以利沙伯(エリザベス)も懐姙六月になると聞て、往て賀せんと面会したれば、以利沙伯に来意を知りて、汝が挨拶の吾耳に入るとき、我児は胎内に喜び躍れり、(是児を洗者約翰とす、)とあるに亦相似たり。厩戸を馬屋戸となす説は早く帝説書紀よりあり、是も彼猶太の王族約瑟(ヨセフ)、馬利の夫妻、戸籍の検査にベトレムに赴き、村の入口なる厩に一夜を明さんとして、其処に於て開胎し、其児を馬槽に寝せたるを救世主耶蘇基督とするに相似たり。此の如く大使を救世菩薩の化身して降誕といふ談は、彼耶蘇経典に類似す、是必ず暗合にはあらじ、当時の僧徒等が其事を耳食りたるを種となして構造したるにてあるべし。
飛鳥奈良の朝の比に渡唐の僧徒が、耶蘇基督の事を聞知りたりといふは、一考すべき価値のある問題なり。天主教の支那大陸に入りたるは六朝時代にあること、隋の徐荽が説文解字の示部に新附四字あり、其一の祆は、胡神也、從天示聲とある、此字を隋代の説文に加ふほどなれば、其字の稍旧きを知る。されば徐継畬の瀛環志略に、中國自前五代時(六朝を云)有祆神祠又有胡祆祠 、火祠唐時有波斯經教、天寶四年、詔改兩京波斯寺為大秦寺、又有景教流行中國碑、建中二年、大秦寺僧景淨述とあり、以て彼大陸へ仏教の外に西域の宗教も流布したる概略を知るべし。祆は即ち天神教にて、波斯の拝火教とは別なれど、是を胡神として流用し、火祆と称したるなり。馬哈黙が回教を創めて波斯を併せたるは、太子と同時代なり、其後に波斯教衰へて、其寺を大秦寺となしたるは天平の末にて、大秦は羅馬のことなれば、遣唐学生学僧が羅馬の天主教を聞伝へたるを怪まざるべし。平安京の初めは既に回教も支那に入れり、景教の碑なるものは、大秦寺の僧景浄の文なれど、祆教火祆仏教を雑糅す、必ず回教を呼吸して付会したるにてあるべし。此の如く西洋の宗教は、西域を経て支那に伝播したること存外に早ければ、隋唐の比に耶蘇教の支那に伝播し、其説を太子の伝に付会しあるをいふも、決して牽強の説とは聞ことなかるべし。