「邪馬台国」=「耶婆提国」(その3)

邪馬台国で最大の謎とされているのは邪馬台国がどこにあったかという問題だ。主にこのことばかりが論じられているといったって過言ではないほどだ。


そもそも何でこれが争点になっているかといえば、その最大の原因は『魏志倭人伝』を素直に読めば邪馬台国の位置は九州よりも遥か南方の太平洋上になってしまうからだ。

そこで「南」は「東」の書き誤りと解釈して、九州北岸から東へ船で瀬戸内海または日本海を二十日間の地点に投馬国、さらに東へ舟で十日、そのあと陸上を一ヵ月行った地点−現在の奈良付近に邪馬台国はあったとするのが畿内大和説である。
 一方九州説は「南」という方位はあくまで尊重し「水行二十日」「水行十日、陸行一月」を誇張または書き誤りと見たり、伊都国以下の行程記事はすべて伊都国を起点にしたものといった解釈で、九州北岸から海岸づたいに東または西まわりに南下したり、河川を南下したりして九州の内地に邪馬台国を設定したものである。
(『邪馬台国朝日新聞社


陳寿の記した『三国志』の原本は存在せず、写本のみである。写本の過程で誤記が生じることは十分ありえる。「邪馬臺国(邪馬台国)」も写本には「邪馬壹国」とあり、故に「やまいちこく」が正しいと主張する人もいる。一応その可能性も考えられるけれども「邪馬台国」の誤記とするのが一般的だ。


同様に「南」は「東」の誤記だという可能性は十分ある。何しろ素直に読んでしまうと、とんでもないところに邪馬台国があったことになってしまうのだ。一方の九州説は写本の記述に忠実なのかといえば、「南」はそのままだとはいえ、畿内説同様に素直に読めば邪馬台国は九州に存在しないことになるのであって、実のところ五十歩百歩である。



果たして『魏志倭人伝』写本の記述は誤記なのか?誤記でない可能性はあると俺は思う。すなわち陳寿邪馬台国を南方に設定していたという可能性があるかもしれないということだ。


邪馬台国」=「耶婆提国」と考えればそうなる。


内田吟風は「邪馬台国」は「耶婆提国」であり「ジャワ」のことだという説を唱えた。だがこれには無理がある。『倭人伝』の記述を総合的に判断すれば、日本列島のことを記しているのだと考えるのが妥当であろう。故にこの説は「奇説」扱いされ、まともに取り上げられていない。


しかし、「邪馬台国」=「耶婆提国」という認識が無かったと言い切れるものではないと俺は思う。もちろんその場合は伝説と現実の間に矛盾が生じてしまう。「耶婆提国」はインドの東方にあるとされているからだ。畿内説はもちろんのこと九州説でも「邪馬台国」=「耶婆提国」は成り立たない。



ここで問題になるのが「伝説と現実の間に矛盾が生じた際にどうするのか」ということだ。


現代的な感覚では、伝説と現実の間に矛盾が生じ場合、現実の方を優先するというのが常識的な判断ということになるのだろう。その中にはヤマタノオロチ伝説は河川の氾濫を描写したものだという、非現実的な神話を合理的に解釈しようとするようなものさえある。俺はこの説を疑うし、そういう点で見れば、そういう判断が必ずしも常に正しいわけではないと思う。


過去においてはどうだったのだろうか?俺はよく知らないし、そういう研究はあまりなされていないのではないかと思う。ただ、伝説と現実の間に矛盾が生じ場合に「伝説の方を優先する」という方法だって可能性としては十分ありえるのではなかろうか?


邪馬台国」=「耶婆提国」という認識と、現実の邪馬台国の位置に矛盾がある。そうした場合どうするのか?可能性としては、現実の邪馬台国の位置を伝説上の位置に合致させるという方法だってあるのではないか?すなわち、倭人伝』における邪馬台国の位置は伝説の「耶婆提国」の位置が反映されているという可能性を考えるべきなのではないかということだ。


だとすれば、『倭人伝』に記されている方位をあれこれ詮索したところで、邪馬台国の正確な位置はそれだけではわからないということになる。ただし、行程などは邪馬台国の位置を南方に設定した上で、それに合わせて記されている可能性は高いと思うので、ある程度の推理は可能であろう。


それに関連して、ウィキペディアの「邪馬台国」の項の注に、

これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。また方角の正しい地図は、現代において九州説が創作された時代以降のものしか確認されていないため、その方角の正しい地図の創作自体が、九州説創作の切っ掛けとなったという説もなされている。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
邪馬台国 - Wikipedia

とあるのは注目すべきことであろう。


ここでは「誤った地理観」説と「正しい地理観」説との対立という図式になっているけれども、「正しい地理観を持っていたが、あえて伝説上の耶婆提国の位置を反映させた」という可能性だってあると思う。


もし、古代中国において伝説と現実の間に矛盾が生じたときに伝説を優先するという例が存在すれば、この仮説は荒唐無稽なものではなくなるはずだ。正直それを検証するのは俺の能力では無理っぽいから、あくまで「思いつき」ということになってしまうけど。