「邪馬台国」=「耶婆提国」についてはまだまだ書きたいことがあるのだが、落合弁護士のブログで『本能寺の変 〜信長の油断・光秀の殺意〜 』 (歴史新書y 9)という新書について書いてあったのを見て、こっちについても言及したくなってきた。
- 作者: 藤本正行
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2010/10/06
- メディア: 新書
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「本能寺の変」も「邪馬台国」同様、学者や作家、民間研究者、アマチュアに至るまで多数が参加して議論がなされている日本史のテーマだ。これについても、俺はもっといろんな可能性を模索してみようよって常々思っている。
中でも一番思うところは、「明智光秀の謀叛」と「織田信長の暗殺」の区別がついていないのではないかというところ。
そんなことはちゃんとわかった上で論じているという人もいるかもしれない。しかし、俺の見る限りでは、それについて論じたものというのは無いように思う。軽く触れているものはあるかもしれないが明確にそれを中心に論じてはいないように思う。もちろん俺が全ての論説を見ているわけではないので、そういうのも中にはあるのかもしれないけれど、有名どころでは無いのではないか。
というか、「明智光秀の謀叛」と「織田信長の暗殺」の区別と言っても「なんのこっちゃ」とか「またおかしなことを言い始めた」って思う人も多いだろう。そこから説明する必要があるかもしれない。
辞書によれば「謀叛」とは、
1 時の為政者に反逆すること。国家・朝廷・君主にそむいて兵を挙げること。律の八虐の規定では国家に対する反逆をいい、「謀叛」の字を用い、謀反(むへん)、謀大逆(ぼうたいぎゃく)に次いで3番目の重罪とされる。
2 ひそかに計画して事を起こすこと。
⇒むほん【謀反/謀叛】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
という意味である。
つまり、謀叛には「主君を暗殺すること」なんて意味はない。もちろん「主君を暗殺すること」は謀叛であるけれど、謀叛の意味するところはそれだけではない。
それにもかかわらず、「明智光秀が謀叛を計画した」と言えば「明智光秀が信長暗殺を計画した」と同義になっているように見えるのは一体どうしたことか?
そのことについて大いに突っ込みたい。
織田信長に対する謀叛は明智光秀だけが起こしたのではない。尾張時代にも謀叛はあるし、以降も浅井長政の謀叛など度々謀叛が発生している。有名なのは松永久秀の謀叛だろう。
天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという(信長公記)。
⇒松永久秀 - Wikipedia
見ての通り松永久秀の謀叛とは、信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もったことである。
また、荒木村重の謀叛も有名だ。
⇒荒木村重 - Wikipedia
荒木村重の謀叛も篭城である。
また、足利義昭の信長に対する反抗も「公方様御謀叛」と、ある意味不思議な表現ではあるけれど、ちゃんと史料に残っている。
※あと忘れちゃいけないのが波多野秀治だ。光秀と関わりがある。しかも秀治の処刑が天正7年6月2日で本能寺の変のちょうど三年前なのだ(というのはついさっき知ったのだが)。
⇒波多野秀治 - Wikipedia
というわけで「謀叛」と「信長暗殺」は必ずしも一致しない。というか本能寺の変の方がレアケースである。
すなわち、明智光秀が謀叛を企てたのと同時に信長暗殺を企てたとは必ずしもいえないのである。
元々の計画では篭城するつもりだったのが、たまたま信長を暗殺するのに都合の良い状況が発生したので実行したという可能性もあるのだ。というか、そっちの可能性の方が高いのではないか?
ところが、たとえば、上の本の著者でもある藤本正行氏と鈴木眞哉氏の『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う (新書y) 』では、
となれば、謀叛の計画は相当以前から公家Aと光秀の間で進行していなければならなくなる。だが、いつ訪れるのかもわからない好機を当てにして、光秀と謀反の約束をするような公家が当時いただろうか。
という論理で朝廷謀略説を否定している。俺は朝廷謀略説を支持するものではないけれども、この否定の論理は「謀反=信長暗殺」を前提にしたものと言わざるをえないのであり、そうではない「謀叛」という可能性を考慮してないのであり、実は反論になっていないのである(しかしながら朝廷謀略説を唱える側もまた同様だったりするのだろう)。
このように「本能寺の変」をめぐる議論には大事なことがすっぽり抜けているというのが俺の感想。