暴力装置とシビリアンコントロール

『職業としての政治』(脇圭平訳 岩波文庫)をざっと見てみた(最後の方は飛ばし読みだけど)。


さて、俺が知りたかったのは、「暴力装置」とは「国家」のことか、「軍隊や警察」のことかということもあるけれど、それよりも、「軍隊や警察」あるいはその他の国家に属する機関が、政府の指示に従わないという事態について、ヴェーバーがどう考えているかということであった。


ところが、俺の見る限りでは、それについて何も触れていないようである。書いてあるのは、

生粋の官吏は−ドイツのかつての政治体制を評価する場合、以下のことは決定的に重要な点だが−その本来の職からいって政治をなすべきではなく、「行政」を−しかも何より非党派的に−なすべきである。

とか、

官吏にとっては、自分の上級官庁が、−自分の意見具申にもかかわらず−自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に−あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように−執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。

とかいうことだ。


官吏がそう振舞わないような事態が起きた場合、あるいは起こらないようにするために、どうすべきかというようなことは、『職業としての政治』のテーマでは無いから書かなかったのか、それとも、そういう問題意識が無かったから書かなかったのかはわからない。


そもそも「近代国家」とは、

ある領域の内部で、支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功したアンシュタルト的な支配団体であるということ。

であるからして、官吏が言うことを聞かない団体というのは、「正当な物理的暴力行使の独占」に失敗しているので「近代国家」ではない、ということなのかもしれない。


そして、「正当な物理的暴力行使の独占」に成功しているのなら、国家とその機関である警察や軍隊は一心同体なのであるからして、国家が装置なのか、警察や軍隊が装置なのかというようなことは、「頭が人間なのか、手足が人間なのか、あるいは人体全てを指す場合のみ人間と呼ぶべきか」みたいな話で、あまり意味の無い議論なのかもしれない。


※スリで捕まったとき「この手が勝手にしたことだ」という言い訳は通用しない。手も「頭が命令したことだ」と言い訳はしないだろう(いや出来ないけれど)。


しかしながら、今の日本は、そんな理想的な「近代国家」ではない。官僚が政府の決めたことを、都合の良いように解釈するなんてことは日常茶飯事に話題になることだ。


もちろん日本以外の国だってそうだろう。それどころか公然と反旗を翻すなんてことだってある(最近だとタイの軍部とか)。


「正当な物理的暴力行使の独占に成功した」はずの暴力装置としての近代国家が再分裂するという問題は『職業としての政治』には書かれていないのであり、その議論は他から発生したのであろうと思われ。