『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その6)

今回は『百鬼夜行絵巻』について。まず基礎知識として「百鬼夜行」には「鬼神の行進」「妖怪の行進」「行進だとは限らない」と様々なバリエーションがある。『百鬼夜行絵巻』は少なくとも4つの系統があり最も有名なのは「真珠庵本」と呼ばれる系統。一般に『百鬼夜行絵巻』と呼ばれるけれども、元からそういう名前だったとは限らない。ただし名前が何であろうと「行進」の絵だというのが一般的な見解(時代が進むにつれ必ずしも行進ではなくなるが)。


で、最も有名な「真珠庵本」について。これを妖怪が行進している絵だとすると明らかにおかしなものがある。





他の妖怪は移動していると解釈することが可能だが、これらが移動しているとは到底考えられない(ベルトコンベアの上にいるのなら別だが)。一瞬だけは他の妖怪達の行列の中にいたとしても、次の瞬間には行列から取り残されてしまうだろう(妖怪達が同じ場所をグルグル回っているのなら再び行列の中に入ることができるけど)。


これはどう考えたっておかしいではないか?


で、これについて研究者がどう考えているのかというと、それらしき論考は今のところ見つからない。ただ小峯和明氏がこんなことを書いている。

百鬼夜行絵巻』は一般的に深夜の野外のパレードのイメージ強いが、例外的に貴族の室内とおぼしき女房たちの場面がある(図 3)。ここには、道具類の妖怪以上に女房そのものを妖怪化した趣きが強く、妖怪のジェンダーがあり、また直線的に推移するパレードを異化する作用をもつ。鏡を見る化粧の女や几帳からのぞく女はことごとく獣的に描かれ、明らかに宮廷女房たちへの諷刺、パロディを見て取れる。鏡やおはぐろの小道具に几帳など、女房世界をイメージさせるだけでなく、そこには見る者をも見られる構図に取り込む劇場的な視線がある。パレードする妖怪たちを見る者がいて、それをさらに読者たちが見るという構造ができている。したがって、この妖怪女房の画面だけが独立しているわけではなく、全体のパレードもまた野外ではなく、室内でのものとみるべきことを示唆するだろう。

『百鬼夜行絵巻』とパロディ (パロディと日本文化)

百鬼夜行は野外ではなく室内でのもの。確かにそう解釈すれば女房達の場面もある程度合理的に説明できるかもしれない。


でも果たしてそうだろうか?


百鬼夜行絵巻』は絵巻物だから、詞書が無くても一つのストーリーがあるように見える。ストーリーがあるとすれば、そこに整合性が必要になるから、移動しているものと停止しているものと両方を合理的に説明可能なものを探し求めなければならなくなる。小峯氏はそこに気付いたから「室内」という解答を導きだしたのだろう。


他の研究者はどうなのだろうか?今のところそうした説明は見つけられない。気付いた上でそういうことを超越した絵画だと解釈しているのか、それとも無頓着なのか?


これは『百鬼夜行絵巻』とは何か?またどのように成立したのかという根本的なテーマに関わる重要な問題だと思うのだが…


(つづく)