歴史秘話ヒストリア「俺たちノブナガ親衛隊」

一昨日の放送分。
俺たちノブナガ親衛隊
織田信長と家臣たち 青春の絆〜(歴史秘話ヒストリア

信長が親衛隊に強調したのは、いかに情報が大切かということ。それは戦場以外でも信長の命を救います。信長が将軍への挨拶と都見物を兼ねて京都に出かけたときのことでした。京に到着してほどなく…
兵藏「信長様」
信長「何事じゃ兵藏」
家臣の1人丹羽兵藏がただならぬ形相で飛び込んできました。
兵藏「殿の御身が危のうござる。途中知りおうた小僧の話によりますると…」
兵蔵「まことか?」
小僧「はい、しかとこの耳で聞きました。信長を鉄砲で仕留めるなど造作もないと」
何と鉄砲で信長暗殺を企む刺客がいるというのです。

そんな話だったっけ?と気になって調べてみた。

26、天下見物  丹羽兵蔵御忠節の事 (信長公記首巻中)(現代語訳)
信長公記 巻首(原文)(PDF)


どこからつっこめばいいのやら…


1、「小僧」について。
番組では「小坊主」が握り飯(情報の報酬と思われ)食っている。しかし原文では「ござかしきわらんべ」とあり「小賢しい童」だろう。なんで「小坊主」になってしまったかのかが謎だが、おそらく「わらんべ→子供→小僧→小坊主」と変化したのだろうと思われ、原文を読んでれば起こりえないことであって、何かの本に子供の意味で「小僧」と書いてあったのを「小坊主」の意味だと受け止めてしまったのではなかろうか。


なお上の現代語訳では「土地の子供」と訳しており、兵藏が京都の子供を手なづけてスパイさせたように解釈しているけれど、俺はこの「童」は刺客の一行(約30人)の1人であろうと思う。童といっても稚児姿という意味であって年齢的には15〜6歳だったかもしれない。いずれにしろ「小坊主」でないことは間違いない。ヒストリアでは「途中知りおうた小僧」とあるけど、「上洛の途中で知り合った旅人(実は刺客)一行の中の童」という意味ではなくて、たまたま暗殺計画の話を聞いてしまった小僧から聞き出したみたいになっている。つまり刺客一行の1人でもなければスパイでもない。どうしてこうなった?


2 丹羽兵藏は信長の親衛隊ではない。原文には「清須の那古野弥五郎が内に丹羽兵藏とて」とあり、信長の直臣でないことは明らかだろう。
マイナー武将列伝・那古野弥五郎
そもそも親衛隊なら信長の上洛に同行しているのではないか?兵藏は在京の信長に尾張からの使者として上洛したのだ。


3 「信長を鉄砲で仕留めるなど造作もない」とあるけれど、これは原文の「鉄炮にて打ち候はんには何の子細あるまじき」の部分だろう。しかし「何の子細あるまじき」とは、現代語訳では「あとで公方様の許し状を貰って宿の者に下されれば、宿を襲うて鉄砲で討ちとっても不都合は生じまい」となっている。「あとで」というところが気になるけれど「不都合は生じまい」という意味なのは間違いなかろう。なおヒストリアでは「小僧」から聞いたことになっているけれど、この部分は原文では「夜るは伴の衆に紛れ、近々と引き付け、様子を聞くに」とあるので、兵藏が直接聞いたのではないだろうか?


4

兵藏はひそかに刺客達の後をつけ彼らの宿を突き止めます。

そんなことは書いてない。兵藏は自身を三河人と偽っているので刺客は警戒してないのだから尾行などしないで堂々と同行すればいいだけの話だろう。


5

兵藏の情報から信長は大胆にも自ら刺客達の元へ乗り込みました。

信長が刺客達の宿を乗り込んだかのようだが宿に行ったのは金森長近と兵藏である。そこで現代語訳にあるように「夕べ貴殿方御上洛のこと、あるじ上総介も存じてござるによって、このように挨拶にまかり越した次第でござる。ついては貴殿方も上総介へ返礼し候え」と言上したので、刺客達は仰天したのである(ここでは刺客だと知っているとは言っていない)。信長が彼らと面談したのは翌日で、彼らが小川表(管領細川氏の屋敷らしい)に行った時に、信長も小川表見物と称して出かけ、そこで彼らに声をかけたのである。


こんな具合にデタラメだらけなんだが、しかし、こんなデタラメだらけにしなければならない必要がどこにあるのだろうか?その意図が全く見えない(兵藏が親衛隊でないのは都合悪いかもしれないがそれ以外は)。


一応考えられるのは、そもそも改竄する意図もなければ改竄したという認識すらなく、原文ではなくて何かの本を読んで、その本がそもそも間違っていたか、あるいはその本には間違ったことは書かれてなかったけれど詳細に書かれているわけではなく、なおかつ原文を読んでいないから誤った解釈をしてしまったのではないかということ。

『信長公記』を読む(織田信長暗殺未遂事件)その1

ついでだから信長暗殺未遂事件について検証してみる。


史実(通説)によれば

1541(天文10年)金森長近(18)が織田家に仕官?
1551(天文20年)織田信秀
1555(天文24年)清須織田氏滅亡
1556(弘治2年)斎藤道三戦死
1559(永禄2年)信長上洛 
1560(永禄3年)桶狭間の戦い
1561(永禄4年)斎藤義龍急死
1562(永禄5年)徳川家康と同盟
1565(永禄8年)足利義輝暗殺

信長上洛時に美濃は斎藤義龍が支配、三河の主は松平信康(家康)だけど駿府の人質で今川義元が実質支配。


信長公記』によれば丹羽兵藏は三河人と偽っている。ただしこの時点では「刺客」一行が美濃人だと知っていたという記述はない。ましてや「刺客」だとは知ってるはずもない。

都へ罷り上り候ところ、人体と覚しき衆、首々五、六人、上下三十人計り上洛候。志那の渡りにて、彼の衆乗り候舟に、同船仕り候。

「人体(じんてい)」とは「人品のよいこと」という意味だから、上級武士が5〜6人いる集団に対して正体を隠したということだろう。それに対して彼らが気を許したのは三河人が尾張の信長を敵視していると考えたのだと思われ。


ただし『信長公記』では桶狭間の戦いは天文21年(1552)のこととしているので、この世界では今川義元は既に死んでいる。信長上洛を何年のこととしているのかは不明。斎藤道三戦死の記事は上洛の記事の後にある。史実と突き合わせれば時系列が無茶苦茶である。


ここで問題になるのが、信長を暗殺しようとしたのは誰なのか?ということ。史実では信長上洛の1559年には道三は死んでるので義龍に違いない。しかし『信長公記』の世界では道三は生きているのかもしれない。時系列は無茶苦茶だけれど書いてあることは史実に忠実なのだとしたら暗殺の首謀者は義龍で問題ないけれど、首謀者が道三の設定で創られた話の可能性もなくはない。


続けて『信長公記』には

何くの者ぞと尋ねられ、三川の国の者にて候。尾張の国を罷り通り候とて、有随なる様体にて候間、機遣仕り候て、罷り越し候と申し候へば、上総かいそうも程あるまじく候と申し候。

とある。「有随なる様体にて候間、機遣仕り候て、罷り越し候」というのが俺には解読困難。先にも紹介した現代語訳によれば

船中彼らは「貴殿、生まれはいずくぞ」と聞いてきた。丹羽が「三河の者にござる。尾張を通ってまいった」と答えると、一行はつっと視線を下に落とし、沈黙した。さらに「尾張では何かと面倒や気遣いが多うござった」というと、一人が「上総めは甲斐性無しよ」と言い捨てた。

信長公記首巻中
と訳されているけれども、「生まれ」を聞かれたのではないと思うし「尾張では何かと面倒や気遣いが多うござった」でいいのだろうか?「有随なる様体」とはどういう意味だろうか?俺は自信ないけれど「有随なる様体」とは「丹羽兵藏が集団の後についていくような格好になっている」という意味ではないかと思う。すなわち「私は三河国の者で尾張を通過してきて、今はあなた達の後ろについてきているような格好になってしまって、気まずいので同じ船に乗ることにしました」という意味ではないだろうか?同じ船に乗れば会話できるので、怪しい者ではないと自己紹介し、これから一緒についていっても気まずくないということではないか?(間違い)。


その思惑通りに、三河人だということがわかったので相手は気を許した。そして相手は「上総かいそうも程あるまじく候」という話をした。で、「上総かいそう」とは何かということなんだけれど「かいそう」は果たして「甲斐性」なのか?検索すると南條範夫織田信長』では「信長めの異相」となっている。「上総が異相」と読んだのだろう。「いそう」が「異相」かはともかく『上総が「いそう」』と読むのが正しいように思われる。俺は「威相」ではないかと思う。

八相の一つ。威厳の相。態度が堂々としていて、頼もしい印象を与える人が持っている相のこと。

威相(いそう)とは - コトバンク


長くなったので続く