関ヶ原の戦い「問鉄砲」問題に関する重要事実(その7)

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引き続き布施孫兵衛(重次)について。

 

寛政重修諸家譜』によれば三善清行の子浄蔵貴所の2人の子のうち1人が布施氏、もう1人が飯尾氏の祖。

浄蔵 - Wikipedia

 

「今の呈譜」では三河国住人布施次郎左衛門重道の子の伊豆守重秀松平清康に仕え、長男が孫左衛門吉次(長吉)次男が孫兵衛重次だとする。

 

ややこしいのだが、『寛永諸家系図伝』で「長吉」とされていた人物が「今の呈譜」では「義次」となっていると。ただし『寛政譜』は『寛永譜』に準拠にするので「長吉」を採用し、さらに「義次」を「吉次」と表記(後述)。『寛永譜』に

長吉 孫左衛門尉 生國参河

大権現につかへたてまつる 法名蓮忠

長吉(蓮忠)の子が長吉(宗与)

長吉 孫左衛門 生國同前

大権現をよび台徳院殿につかへたてまつる

元和八年九月に死す 歳七十 法名宗与

吉成と吉時の二子あり

吉成 半兵衛 生國相模

将軍家につかへたてまつる

寛永十五年八月廿二日に死す 歳三十二 法名宗蓮

吉時 与兵衛 生國同前

寛永九年八月廿ニ日

将軍家につかへたてまつる

吉成の子が同じく吉成

吉成 亀之介 生國武蔵

将軍家につかへたてまつる

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同じく『寛永譜』に

吉次 孫右衛門 生國参河

大権現につかへたてまつる

三州一向宗一揆の時渡邊忠右衛門と槍をあはせ討死す

子が布施孫兵衛重

重次 新次郎 孫兵衛 生國同前

大権現につかへたてまつる

慶長五年関ヶ原御陣に供奉

翌年弓同心十騎をあづけらる

同十二年駿州におひて死す 歳五十四

子が重直

重直 新次郎 孫兵衛 生國武蔵

慶長十二年父が家督をついで弓同心をあづけらる

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また別に

勝重 藤兵衛 生國参河

廣忠卿をよび大権現につかへたてまつる

天正十二年長久手御陣に供奉

慶長十三年に死す とし八十八 法名覚禅

子が正森と正重

正森 五兵衛 生國同前

大権現につかえたてまつり天正十八年小田原御陣に供奉

慶長五年関ヶ原御陣にしたがひたてまつる

大坂両御陣に供奉 のち台徳院殿をよび将軍家につかえたてまつる

寛永七年に死す 歳六十四 法名宗覚

正重 藤右衛門 生國同所

台徳院殿につかふまつる

慶長五年関ヶ原御陣に供奉

大坂御陣の時伏見の城番をつとむ のち将軍家につかえたてまつる

正森の子も正重

正重 五兵衛 生國武蔵

寛永十一年より御番をつとむ

-※ この布施氏は『寛政譜』に「今の呈譜に藤原氏なりといふ」とある。

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また別に後北条氏に仕えた後に徳川家臣となった布施氏がいる。これも重要なのだが煩雑になるので今回は略。

 

『寛政譜』に「重品が家(孫兵衛重次の子孫)」の「今の呈譜」では布施伊豆守重秀の長男が孫左衛門(吉次)長吉、次男が孫兵衛重次だとするけれど、『寛永譜』では「吉次→重次(孫兵衛)→重直になっている」。

 

また『寛政譜』「長吉(孫左衛門蓮忠)→長吉(孫左衛門宗与)→吉成・吉時・忠則」とあるのは「今の呈譜」では「義次→義祏→義重(『寛政譜の吉成)としていると。

 

寛永譜』の「吉次」は三河一向一揆で渡邊忠右衛門(『寛政譜』で守綱)と槍をあはせ討死したとする。「今の呈譜」で「義次」(『寛永譜』の長吉)も三河一向一揆で渡邊半蔵守綱に討たれたとしている。したがって義次(長吉)と吉次は同一人物だと考えられる。「長吉(義次)=吉次」から二家に分かれたように思われる。しかしながら『寛永譜』において同一人物だという証拠はないと『寛政譜』はいう。

 

寛永諸家系図伝』は寛永18-20年(1641年-1643年)に江戸幕府により編纂された。布施孫兵衛重次は慶長12(1607)没。孫兵衛が没してから34年後。子の重直は慶安元(1648)年54歳で没。『寛永譜』の時点で生存していた。

 

重次の父が「吉次」なのか、父は「伊豆守重秀」で兄が「吉次」なのか、子の重直が生存していた時点の『寛永譜』が正しいように思われはする。

 

長吉(蓮忠)=義次の子が長吉(宗与)は元和8(1622)年70歳で死去だから天文22(1553)年生、重次は慶長12(1607)年54歳で死去。天文23(1554年)生。義次=吉次で重次が吉次の子だとすれば長吉(宗与)と重次は1歳違いの兄弟。重次が吉次の弟だとすれば、兄の子(甥)が弟の重次より1歳年長。長吉(蓮忠)=義次の生年は不明(「今の呈譜」では永禄七(1564)年三河一向一揆で討死)

『寛政譜』編者は

また今兩家の呈譜は孫兵衞重次を伊豆守重秀が二男とする時は時代たがへり。よりて舊にしたがひいさゝか疑を辨ず。

としている。吉次が重次の兄だというのはやはり不自然な感じはする。

 

※ 三河一向一揆での家康方での討死は三河譜代にとって非常な名誉だと思われる。しかるに先祖の業績としていたものを『寛政譜』では「先祖の兄」の業績にしてしまったことになる。しかも『寛永譜』では「吉次」は一揆で討死だが「長吉(蓮忠)」の記事で死については一切書かれていない。

 

 

とにかく非常にややこしい。

 

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ところで、『寛政重脩諸家譜』の布施孫兵衛重次の記事には非常に注目すべき点がある。

重次 新次郎 孫兵衛 母は某氏

東照宮につかへたてまつり、關原御陣に供奉す。慶長六年相模国高座郡のうちに於て二百二十石の釆地をたまわり御弓頭となり同心十人を預けられ後駿府に候す。。十二年かの地にをいて死す。年五十四。法名日到。駿河國感應寺に葬る。妻は竹中丹後守某が女。

『寛政重脩諸家譜 第7輯』(1923)

それは「慶長六年相模国高座郡のうちに於て二百二十石の釆地をたまわり」の部分。より正確には相模国高座郡鵠沼

(7)鵠沼 元禄十五年(一七〇二)現在、村高六一四石六斗三升三合である。慶長六年(一六〇一)三月三河以来の譜代の家臣、布施孫兵衛重次が二二〇石を拝領して天領との二給となり、元和三年(一六一七)天領分も大庭村の一部と共に幕府の祐筆大橋保重の所領となる。布施氏の場合全所領高は本村に与えられた二二〇石のみであり、従って二給の一つとはいえ、この知行地は布施氏の本貫の地であることは過言を要しない。なお『重修譜』によると、村内の浄土真宗万福寺には重次の姉が嫁いでいる。(以下略)

※「浄土真宗万福寺には重次の姉が嫁いで」とあるが、『寛政重脩諸家譜』に重次の娘で重直の妹が

女子 相摸國高座郡萬福寺某が妻

とある。

 

 

相模国高座郡。つい最近どこかで見たような…そう、久保島孫兵衛は相模国高座郡遠藤村の住人なのだ。

 

 

関ヶ原の戦いの「問鉄砲」に関係する久保島孫兵衛と布施孫兵衛、二人とも相模国高座郡(遠藤と鵠沼どちらも現藤沢市)と関りを持っているのだ。

 

(つづく)

 

※ あと『寛政譜』によれば布施孫兵衛重次の妻は「中丹後守某が女」とある。竹中丹後守といえば竹中重治竹中半兵衛)の嫡子竹中重門が思い浮かぶが『寛政譜』の竹中氏にそのような記述は無い。重門なら重門と書くはずだが、竹中丹後守「某」。しかし重門以外に竹中丹後守がいたのだろうか?これも気になるところではある。竹中重門の子に竹中重次あり

重次 主膳、與右衞門、黑田筑前守が家臣となる。

『寛政重脩諸家譜』

この人物も黒田氏関係者。気になるところではある。

関ヶ原の戦い「問鉄砲」問題に関する重要事実(その6)

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松尾山の小早川秀秋陣に鉄砲を撃った隊の鉄砲頭とされている布施孫兵衛について。

▼布施孫兵衛と堀田勘左衛門は実在の人物か?
 松尾山の小早川秀秋の陣に向けて鉄砲を撃った隊の鉄砲頭として、布施孫兵衛(家康麾下)と堀田勘左衛門(福島隊)について記している史料は、『黒田家譜』(異説として掲げる)、『関原軍記大成』、『改正三河風土記』(堀田勘左衛門については異説として掲げる)、『落穂集』、『天元実記』(布施孫兵衛のみを記す)であり、史料の数としては多くない(表1参照)。
 布施孫兵衛について、『黒田家譜』では(家康の)本陣から(来た)とし、『関原軍記大成』(61)では家康の弓長とし、『関原軍記大成』(『朝野旧聞裒藁』、「東照宮御事蹟」第三百九十二、所収)では家康の銃頭とし、『改正三河風土記』では(家康の)鉄砲頭とし、『落穂集』、『天元実記』では(家康の)先手の物頭としている。このように史料によって一定しないが、現場で家康麾下の鉄砲隊を指揮したのであるから、本来であれば鉄砲頭でなければならないことになる。
 布施孫兵衛というのは実在した人物なのであろうか。『寛政重修諸家譜』(62)、『寛永諸家系図伝』(63)には、布施重次(布施孫兵衛)として記載があるので、実在の人物であることは確かである。『寛政重修諸家譜』では、布施重次について、関ヶ原の戦いに供奉し、慶長6年(1601)に弓頭になり同心10人を預けられた、とあるので、布施重次が弓頭になったのは関ヶ原の戦いの翌年であったことがわかる。しかし、『寛政重修諸家譜』(布施重次の項)には「問鉄砲」に関する記載はなく、「問鉄砲」の話が歴史的事実であれば、このような重要な役割を果たしたことが当然載せられたはずであろう。このように考えると、慶長5年の時点で鉄砲頭ではなく、鉄砲隊を指揮する立場にはなかった布施孫兵衛が鉄砲隊を指揮して「問鉄砲」を撃たせた、とする話自体に疑義が生じることになる。

フィクションとしての「問鉄砲」(パート2) : 家康神話創出の一事例(その2)

 

『寛政重脩諸家譜』

重次 新次郎 孫兵衛 母は某氏

東照宮につかへたてまつり、關原御陣に供奉す。慶長六年相模国高座郡のうちに於て二百二十石の釆地をたまわり御弓頭となり同心十人を預けられ後駿府に候す。。十二年かの地にをいて死す。年五十四。法名日到。駿河國感應寺に葬る。妻は竹中丹後守某が女。

『寛政重脩諸家譜 第7輯』(1923)

大久保荒之助忠重布施孫兵衞重次輕卒ノ頭ト成

『武徳編年集成』慶長6年

子の重直も弓頭。小牧長久手の戦いの記事に

源君自ラ采幣ヲ取セ玉フテ御下知ニ付、鳥居鶴助、成瀨新太郞、布施孫兵衞、坂部又十郞大久保忠隣カ手ノ者鳥部金九郞等、差ツメ引詰、矢タネヲ不惜是ヲ射、

(『武家事紀』)

鳥井鶴介、成瀬新太郎、布施孫兵衛、坂部又十郎、大久保新十郎忠隣等か手の者、鳥辺金九郎等さしつめ引つめ矢たねをおします射かくれは、

(『尾陽雑記』)

鳥居鶴之助(父總兵衞)成瀬新太郞布施孫兵衛重次戶部金九郞是等ハ大久保新十郞忠憐ノ組ノ者弓ノ働

(『小牧陣始末記 [記] (日本戦史材料 ; 第1巻) 』神谷存心 明22)

とあり、弓矢を武器としている。『明良洪範』に日置流の吉田助左衞門豐綱という人が布施孫兵衛(重直だと思うが)の弓の師だとある。

 

関ヶ原の戦いにおいては

御弓頭、布施孫兵衞·米津梅干之介·倉橋内匠·矢代甚三郞·大久保權右衞門等五頭なり、

(『関原軍記大成』)

とあり、また大草松平の系譜の松平康安の項に

五年九月關原の役に、布施孫兵衞重次とともに、弓矢を帶して御右に候す。

(『寛政重脩諸家譜』

松平康安(大草松平)

合戰於關原、時康安與布施孫兵衞尉倶爲戎右而帶弓矢、既而逆徒敗北、

(『系図綜覧 上巻』)

とあり、やはり弓矢を武器にしている。

 

『関原軍記大成』の著者宮川忍斎(1647-1717)は

又別記に、内府公の銃頭布施孫兵衞、松尾山へ向つて鐵炮を打たせたりと記す。今按ずるに、布施孫兵衞は弓長なり。若し鐵炮二十挺御弓に加へられし故に、其鐵炮を打たせたるにや覺束なし。

「別記」に布施孫兵衛に鉄砲を撃たせたとあるが、孫兵衛は弓長であり、御弓に鉄砲二十挺を加えられたので、その鉄砲を撃たせたものか?覚束ないと疑問を呈す。

 

「別記」が何かはわからないが、『黒田家譜』に「福島が手の鐵砲を二十挺組にして」とあり、異説として

又戴砲をうたせたるは、御本陣より布施孫兵衛福島自分の鐵砲頭堀田勘左衛門といふ者、兩人にて鐵砲十挺宛打かけしといふ。

とある。これを見ると鉄砲二十挺は「福島(正則)が手」の話であり、布施孫兵衛の場合は「孫兵衛と堀田勘左衛門の両名で十挺宛(計二十挺)」という話であり噛み合わないような感じもする(布施孫兵衛が福島正則の鉄砲隊を指揮するというのは考えにくいので)。『黒田家譜』の説を基にしているのか、別に鉄砲二十挺の話があったのか不明。なお『関原軍記大成』の著者宮川忍斎は『黒田家譜』の編纂にも関与しているとのこと。『黒田家譜』も異説として書いているのだから黒田家譜』成立以前に複数の説が存在していたと考えられる。

 

普通に考えれば布施孫兵衛(重次)が鉄砲隊を指揮していたとは考えにくい。ただし、「史実ではない」と切り捨てることもできるけれども、ではなぜここに布施孫兵衛が登場するのか?ということを考察するのは決して無意味なことではないと思うのである。

 

※なお布施孫兵衛重次は慶長12年に没したはずだが、

御物頭は(中略)布施孫兵衛重次(一本重盛)

(『新東鑑』慶長19年)

十一日巳ノ刻 神君遊猟ノ御行粧ニテ駿城ヲ御首途アリ 御旗奉行庄田小左衛門安次保坂金右衛門御槍奉行大久保彦左衞門忠教(中略)布施孫兵衛重次近藤登之助(略)

(『武徳編年集成』慶長19年10月)

となぜか慶長19年の記事に登場する。別人(子の重直?)と混同したのだろうか?「重盛」という人物は確認できず。

 

(つづく)