弥助は本能寺にいたのか?(黒人弥助についてのあれこれ)

弥助が本能寺の変の時に本能寺にいたという話は小説等の創作物には見られます。(榊山潤『築山殿行状』など)

 

東京大学史料編纂所准教授の岡美穂子氏(と思われるアカウント)は以下のポストをX上でしました。

岡 美穂子. @mei_gang30266

しばらく来ないと言ったが、丁寧に専門的な知識を求められると回答せずにいられない性質なので、立ち寄ってしまった。弥助が本能寺の変の日に、信長と一緒に居て、信長の死後、信忠のところへ行き、最後まで刀を持って戦ったことは、イエズス会史料にはっきり書かれています。

   2024-07-19 21:00:57

(既に削除されている)

 

だが、弥助が本能寺にいたとは史料に書いてありません

又ビジタドールが信長に贈つた黑奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相當長い間戰つてゐた處、明智の家臣が彼に近づいて、恐るゝことなく其刀を差出せと言つたので之を渡した。家臣は此黑奴を如何に處分すべきか明智に尋ねた處、黑奴は動物で何も知らず、又日本人でない故之を殺さず、印度のバードレの聖堂に置けと言つた。之に依つて我等は少しく安心した。

(『耶蘇会の日本年報 第1輯』村上直次郎 訳註 昭和18年

 

信長の求めによって巡察使が彼の許に残していった黒人(カフル)が信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い間戦っていたので我らは少なからず心配していたが、明智の一家臣が彼に近づき、恐れずに刀(カタナ)を(棄てるよう)求めたところ、彼はこれを差し出した。別の家臣が明智の許に行き、黒人(カフル)をいかにすべきか問うたところ、その黒人(カフル)は動物(ベステイアル)であって何も知らず、また日本人でもないから彼を殺さず、インドの司祭たちの教会に置くように命じた。これによって我らは幾分落ち着き始めたが、

(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第3期 第6巻,松田毅一 監訳 1991)

 

「信長の死後、世子の邸へ行き」であって、本能寺から世子(織田信忠)の邸の妙覚寺(あるいはその後移動した二条新御所かもしれないが)に行ったとは書いてません。この件については既に多くの人がツッコミを入れてますね。

 

ところで「信長の死後、世子の邸へ行き」とあるのだから、弥助は妙覚寺に最初からいたわけでもないことになります。おそらく京の町のどこかに宿をとっていたのでしょう。

 

信長公記』に小沢六郞三郞が二条新御所に向かった様子が描かれています。

さる程に、小沢六郞三郞、鳥帽子屋の町に寄宿これあり。信長公御生害の由承り、此の上は、三位中將信忠卿御座所へ参り、御相伴仕るべきの由、申され候。亭主を初め、隣家の者ども走り寄り、二条の御構へも早く取り巻き候間、御一手になるべからず候、所詮隠しおき、扶申べく申す候間、罷り退かれ候へと、色々異見候へども、同心なく、身方の体にもてなし、纒を打ちかづき、町通二条へあがられ候、

小沢六郞三郞の場合は「身方(みかた)」のふりをして、「纒を打ちかづき(どういう意味か自分にはわかりませんが要するに何かに偽装したのではと思います)」、二条新御所入りしたみたいですが、弥助の場合はそうもいかないでしょう。もっと早い段階(明智軍がまだ到着してない頃)に信忠の元に駆け付けたのではないかと推測します。

 

「信長の死後」とありますから、本能寺に駆け付けるのは間に合わなかったのでしょう。そもそも信長が死んだことは確認しようが無いと思われるので、行っても無駄だという情報がもたらされたのではないかと思います。そして弥助が信忠の元に早い段階で駆け付けたのだとすれば、弥助は信忠の宿所である妙覚寺の近くに寄宿していたのではないかと推測できるのではないかと思います。

 

(訂正 9/17 17.00) 

本能寺跡 中京区油小路通蛸薬師下る山田町

烏帽子屋町 中京区烏帽子屋町

妙覚寺 中京区大恩寺町

 

 

そしてこの仮説を正しいとして、さらに仮説を重ねるなら

弥助の主人は織田信忠だったのではないか?

という、おそらく今まで誰も主張してなかったことが導かれるのではないかと思うのであります。

 

もちろん家忠日記天正10年4月19日の記事によれば、その時点での弥助の主人が信長だったことは疑いないところであります。ただし、その後6月2日の本能寺の変までずっと信長が主人だったとは限らないと思うのです。『信長公記』に天正10年3月26日に信長が信忠に「天下の儀も御与奪ならるべき旨、仰せらる」とあります。甲州征伐から帰陣した後に弥助も信忠に与えたという可能性はあるのではないかと思います。

「鞘巻の熨斗付」について(その6)(黒人弥助についてのあれこれ)

織田信長が「鞘巻の熨斗付」を与えたのは、(某研究者の主張とは違い)むしろ信長が弥助を武家奉公人として雇用したことの証の可能性が高い。

 

実はまだ書くべきことがあるのだけれど調べ切れていない。いつか書くかもしれないけれど調べるのに時間がかかるし、他の件で書きたいことがあるので「鞘巻の熨斗付」については一応これでおしまい。

 

(参考文献)

『古事類苑』『貞丈雑記』『刀劒問答』『軍用記』『安斉雑考』『御供故實』『武家名目抄』『壺蘆圃漫筆』ほか

『服飾の美意識 : "着ること"の意味 (テレビ大学講座) 』 (谷田閲次 1980.)ほか

 

これで『信長公記』(尊経閣文庫本)の記述

然に彼黒坊被成御扶持、名をハ号弥助と、さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、依時御道具なともたさせられ候

から平山優氏が弥助は「侍」とする根拠の

「①信長より「扶持」を与えられている、②屋敷を与えられている、③太刀を与えられている」

のうち「鞘巻きの熨斗付」については「侍」の根拠であるどころか、「侍ではない」の根拠になりえる可能性が高い。次に「扶持」については武家奉公人であっても信長から扶持されてることに違いはないので「侍」の根拠にはならない。そして「私宅」についてもおそらく「侍」の根拠にはなりえないと思う。この「私宅」についてはまたそのうち書く予定。