引き続き布施孫兵衛(重次)について。
『寛政重修諸家譜』によれば三善清行の子浄蔵貴所の2人の子のうち1人が布施氏、もう1人が飯尾氏の祖。
「今の呈譜」では三河国住人布施次郎左衛門重道の子の伊豆守重秀が松平清康に仕え、長男が孫左衛門吉次(長吉)、次男が孫兵衛重次だとする。
ややこしいのだが、『寛永諸家系図伝』で「長吉」とされていた人物が「今の呈譜」では「義次」となっていると。ただし『寛政譜』は『寛永譜』に準拠にするので「長吉」を採用し、さらに「義次」を「吉次」と表記(後述)。『寛永譜』に
長吉 孫左衛門尉 生國参河
大権現につかへたてまつる 法名蓮忠
長吉(蓮忠)の子が長吉(宗与)
長吉 孫左衛門 生國同前
大権現をよび台徳院殿につかへたてまつる
元和八年九月に死す 歳七十 法名宗与
吉成と吉時の二子あり
吉成 半兵衛 生國相模
将軍家につかへたてまつる
吉時 与兵衛 生國同前
寛永九年八月廿ニ日
将軍家につかへたてまつる
吉成の子が同じく吉成
吉成 亀之介 生國武蔵
将軍家につかへたてまつる
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同じく『寛永譜』に
吉次 孫右衛門 生國参河
大権現につかへたてまつる
子が布施孫兵衛重次
重次 新次郎 孫兵衛 生國同前
大権現につかへたてまつる
慶長五年関ヶ原御陣に供奉
翌年弓同心十騎をあづけらる
同十二年駿州におひて死す 歳五十四
子が重直
重直 新次郎 孫兵衛 生國武蔵
慶長十二年父が家督をついで弓同心をあづけらる
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また別に
勝重 藤兵衛 生國参河
廣忠卿をよび大権現につかへたてまつる
慶長十三年に死す とし八十八 法名覚禅
子が正森と正重
正森 五兵衛 生國同前
大権現につかえたてまつり天正十八年小田原御陣に供奉
慶長五年関ヶ原御陣にしたがひたてまつる
大坂両御陣に供奉 のち台徳院殿をよび将軍家につかえたてまつる
正重 藤右衛門 生國同所
台徳院殿につかふまつる
慶長五年関ヶ原御陣に供奉
大坂御陣の時伏見の城番をつとむ のち将軍家につかえたてまつる
正森の子も正重
正重 五兵衛 生國武蔵
寛永十一年より御番をつとむ
-※ この布施氏は『寛政譜』に「今の呈譜に藤原氏なりといふ」とある。
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また別に後北条氏に仕えた後に徳川家臣となった布施氏がいる。これも重要なのだが煩雑になるので今回は略。
『寛政譜』に「重品が家(孫兵衛重次の子孫)」の「今の呈譜」では布施伊豆守重秀の長男が孫左衛門(吉次)長吉、次男が孫兵衛重次だとするけれど、『寛永譜』では「吉次→重次(孫兵衛)→重直になっている」。
また『寛政譜』「長吉(孫左衛門蓮忠)→長吉(孫左衛門宗与)→吉成・吉時・忠則」とあるのは「今の呈譜」では「義次→義祏→義重(『寛政譜の吉成)」としていると。
『寛永譜』の「吉次」は三河一向一揆で渡邊忠右衛門(『寛政譜』で守綱)と槍をあはせ討死したとする。「今の呈譜」で「義次」(『寛永譜』の長吉)も三河一向一揆で渡邊半蔵守綱に討たれたとしている。したがって義次(長吉)と吉次は同一人物だと考えられる。「長吉(義次)=吉次」から二家に分かれたように思われる。しかしながら『寛永譜』において同一人物だという証拠はないと『寛政譜』はいう。
『寛永諸家系図伝』は寛永18-20年(1641年-1643年)に江戸幕府により編纂された。布施孫兵衛重次は慶長12(1607)没。孫兵衛が没してから34年後。子の重直は慶安元(1648)年54歳で没。『寛永譜』の時点で生存していた。
重次の父が「吉次」なのか、父は「伊豆守重秀」で兄が「吉次」なのか、子の重直が生存していた時点の『寛永譜』が正しいように思われはする。
長吉(蓮忠)=義次の子が長吉(宗与)は元和8(1622)年70歳で死去だから天文22(1553)年生、重次は慶長12(1607)年54歳で死去。天文23(1554年)生。義次=吉次で重次が吉次の子だとすれば長吉(宗与)と重次は1歳違いの兄弟。重次が吉次の弟だとすれば、兄の子(甥)が弟の重次より1歳年長。長吉(蓮忠)=義次の生年は不明(「今の呈譜」では永禄七(1564)年三河一向一揆で討死)
『寛政譜』編者は
また今兩家の呈譜は孫兵衞重次を伊豆守重秀が二男とする時は時代たがへり。よりて舊にしたがひいさゝか疑を辨ず。
としている。吉次が重次の兄だというのはやはり不自然な感じはする。
※ 三河一向一揆での家康方での討死は三河譜代にとって非常な名誉だと思われる。しかるに先祖の業績としていたものを『寛政譜』では「先祖の兄」の業績にしてしまったことになる。しかも『寛永譜』では「吉次」は一揆で討死だが「長吉(蓮忠)」の記事で死については一切書かれていない。
とにかく非常にややこしい。
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ところで、『寛政重脩諸家譜』の布施孫兵衛重次の記事には非常に注目すべき点がある。
重次 新次郎 孫兵衛 母は某氏
東照宮につかへたてまつり、關原御陣に供奉す。慶長六年相模国高座郡のうちに於て二百二十石の釆地をたまわり御弓頭となり同心十人を預けられ後駿府に候す。。十二年かの地にをいて死す。年五十四。法名日到。駿河國感應寺に葬る。妻は竹中丹後守某が女。
『寛政重脩諸家譜 第7輯』(1923)
それは「慶長六年相模国高座郡のうちに於て二百二十石の釆地をたまわり」の部分。より正確には相模国高座郡鵠沼村。
(7)鵠沼村 元禄十五年(一七〇二)現在、村高六一四石六斗三升三合である。慶長六年(一六〇一)三月三河以来の譜代の家臣、布施孫兵衛重次が二二〇石を拝領して天領との二給となり、元和三年(一六一七)天領分も大庭村の一部と共に幕府の祐筆大橋保重の所領となる。布施氏の場合全所領高は本村に与えられた二二〇石のみであり、従って二給の一つとはいえ、この知行地は布施氏の本貫の地であることは過言を要しない。なお『重修譜』によると、村内の浄土真宗万福寺には重次の姉が嫁いでいる。(以下略)
※「浄土真宗万福寺には重次の姉が嫁いで」とあるが、『寛政重脩諸家譜』に重次の娘で重直の妹が
とある。
「相模国高座郡」。つい最近どこかで見たような…そう、久保島孫兵衛は相模国高座郡遠藤村の住人なのだ。
関ヶ原の戦いの「問鉄砲」に関係する久保島孫兵衛と布施孫兵衛、二人とも相模国高座郡(遠藤と鵠沼どちらも現藤沢市)と関りを持っているのだ。
(つづく)
※ あと『寛政譜』によれば布施孫兵衛重次の妻は「竹中丹後守某が女」とある。竹中丹後守といえば竹中重治(竹中半兵衛)の嫡子竹中重門が思い浮かぶが『寛政譜』の竹中氏にそのような記述は無い。重門なら重門と書くはずだが、竹中丹後守「某」。しかし重門以外に竹中丹後守がいたのだろうか?これも気になるところではある。竹中重門の子に竹中重次あり
重次 主膳、與右衞門、黑田筑前守が家臣となる。
『寛政重脩諸家譜』
この人物も黒田氏関係者。気になるところではある。