「鞘巻の熨斗付」について(その4)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇
繰り返しますが
弥助が拝領したのは「鞘巻(短刀)」です。
次に熨斗付について。熨斗付というのは金銀の類を延べて鞘に張ったものをいいます。それについて『武家名目抄』(塙保己一)
いにしへはさやうの刀は房小者なとさし申つる
と説明しています。「昔はこのような刀(熨斗付刀)は房小者などが差していた」ということです。
(今泉定介 編『故実叢書』武家名目抄(塙保己一),吉川弘文館,明32-39. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/771996)
ところで「房小者」とは何でしょうか?聞きなれない人が多いと思いますが、実は「房小者」という一つの単語ではなくて「房・小者」なのです。
一般に身分ある武家の供揃いの中には、小者、房、力者などの名が挙げられている。「鎌倉年中行事」(享徳三年奥書)その他の書によると、力者は将軍家の輿を舁き長刀弓矢を持ちその他側近にあって奉仕した者であり、房。小者も身分ある武家の供揃いの員に備わる職分の人々である。
(谷田閲次 編著『服飾の美意識 : "着ること"の意味』,旺文社,1980)
つまり、「房」「小者」それに「力者」は武家奉公人です。
※ なおこの件は、Xでdaisy氏が指摘しているのですが、
平山優云「鞘巻の熨斗付を拝領しているのですから、武士待遇です。『古事類苑』には、「武家しか指せない」と明記してあります。」
— daisy (@daisy6401496693) 2024年8月10日
『武家名目抄』
大内問答云「⚪︎熨斗付刀 さやうの刀は房小者なとさし申つる」
中間・小者・房は武家の奉公人であって、武家ではない。#熨斗付#鞘巻#さや巻 pic.twitter.com/pyH3jcsqND
それに対して歴史研究者の平山優氏が批判しています。
本当にあきれたとしか言いようがない意見の代表がこれ。私は、辞書を引いただけではねぇと呟いたことがありましたが、上から目線だとか散々いわれました。でも、まさにこれこそ、何のために辞書を引いたのか、まったくわからぬ事例。私を非難したいのは構わないが、辞書すら曲解、もしくは読めていない https://t.co/R3aPBSJvXN
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年8月25日
よく見て欲しい。彼は「『武家名目抄』 大内問答云「⚪︎熨斗付刀 さやうの刀は房小者なとさし申つる」 中間・小者・房は武家の奉公人であって、武家ではない。」と言ってるが、次のツリーに引用している『日本国語大辞典』の記事には、「房小者」をちゃんと「武装した僧侶、法体の武士」って書いて
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年8月25日
ある。自分で調べて引用しておきながら、そのことに眼をつぶっているのか、辞書を読めていないのか、実に不思議だ。
— K・HIRAYAMA (@HIRAYAMAYUUKAIN) 2024年8月25日
しかしながら正しいのはdaisy氏であります。※
谷田閲次 編著『服飾の美意識 : "着ること"の意味』(旺文社,1980)はつづけて
この人たちは職分としては高いものではないが、その風俗については一般の武家に課せられる規制の外にあって、たとえば「ひゃうもん(他色の染)」についても「ちとわか(き)衆は不苦候、又は人の小者なと不苦候」(御供古実)と言っている。。また、金拵えの太刀について宗五大草紙は「金刀は御禁制にて候、……古はさやうなる刀をばさもとある人々はさされ候はず候、或は小者房などさし候し」と言い、御供古実にも「金作の刀の事、惣別御禁制にて候……人の小者などは金刀も不苦候か」と見えている。
とあります。つまり身分ある武士は慣習やしきたりによって派手な衣装や太刀を身に着けることができず、むしろ武家奉公人に派手な身なりが許されていたということであります。ただし、武家奉公人が好きで派手なみなりをしていたかというと、「房小者は人の目に立候やうなるか能候」(『武家名目抄』)とあるように、派手な身なりをすることができない主人に代わって奉公人が派手な目立つ身なりをしていたということだと思われます。
よって「鞘巻の熨斗付」のような派手な刀は、武士では無く武家奉公人が身に着ける刀だったということになりましょう。よって、織田信長が「鞘巻の熨斗付」を与えたのは、(研究者の主張とは違い)信長が弥助を奉公人として雇用したことの象徴的な出来事だった可能性が高いと考えてよいのではないかと思います。
※ 前の記事でこの時代は既に脇差(打刀)が主流で、鞘巻(太刀)は日常的では差すことは無かったのではないかと書きました。しかし信長の御供をする時にはこの鞘巻の熨斗付を差していたのではないかと思います。弥助の仕事は主人が外出する際に御供する「房・小者」と同等のものであったと思われます。弥助は京都に現われた初めての黒人であり、弥助がいるだけで人々の注目を集めました。これもまた「房・小者」の派手な身なりと相通じるものがあると思います。
※ もちろん弥助は特殊なケースであり、「房・小者」的な身分であっても、本能寺の変がなかったら、将来的には出世する可能性があったかもしれませんが、なかったかもしれません。