「鞘巻の熨斗付」について(その5)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その4)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇

繰り返しますが

弥助が拝領したのは「鞘巻(短刀)」です。

次に熨斗付について。熨斗付というのは金銀の類を延べて鞘に張ったものをいいます。それについて『武家名目抄』(塙保己一

いにしへはさやうの刀は房小者なとさし申つる

と説明しています。「昔はこのような刀(熨斗付刀)は房小者などが差していた」ということです。

 

武家名目抄

(今泉定介 編『故実叢書』武家名目抄(塙保己一),吉川弘文館,明32-39. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/771996)

 

ところで「房小者」とは何でしょうか?聞きなれない人が多いと思いますが、実は「房小者」という一つの単語ではなくて「房・小者」なのです。

 

一般に身分ある武家の供揃いの中には、小者、房、力者などの名が挙げられている。「鎌倉年中行事」(享徳三年奥書)その他の書によると、力者は将軍家の輿を舁き長刀弓矢を持ちその他側近にあって奉仕した者であり、房。小者も身分ある武家の供揃いの員に備わる職分の人々である。

(谷田閲次 編著『服飾の美意識 : "着ること"の意味』,旺文社,1980)

 

つまり、房」「小者」それに「力者」は武家奉公人です。

 

※ なおこの件は、Xでdaisy氏が指摘しているのですが、

 

それに対して歴史研究者の平山優氏が批判しています。

しかしながら正しいのはdaisy氏であります。※

 

谷田閲次 編著『服飾の美意識 : "着ること"の意味』(旺文社,1980)はつづけて

 この人たちは職分としては高いものではないが、その風俗については一般の武家に課せられる規制の外にあって、たとえば「ひゃうもん(他色の染)」についても「ちとわか(き)衆は不苦候、又は人の小者なと不苦候」(御供古実)と言っている。。また、金拵えの太刀について宗五大草紙は「金刀は御禁制にて候、……古はさやうなる刀をばさもとある人々はさされ候はず候、或は小者房などさし候し」と言い、御供古実にも「金作の刀の事、惣別御禁制にて候……人の小者などは金刀も不苦候か」と見えている。

とあります。つまり身分ある武士は慣習やしきたりによって派手な衣装や太刀を身に着けることができず、むしろ武家奉公人に派手な身なりが許されていたということであります。ただし、武家奉公人が好きで派手なみなりをしていたかというと、「房小者は人の目に立候やうなるか能候」(『武家名目抄』)とあるように、派手な身なりをすることができない主人に代わって奉公人が派手な目立つ身なりをしていたということだと思われます。

 

よって「鞘巻の熨斗付」のような派手な刀は、武士では無く武家奉公人が身に着ける刀だったということになりましょう。よって、織田信長が「鞘巻の熨斗付」を与えたのは、(研究者の主張とは違い)信長が弥助を奉公人として雇用したことの象徴的な出来事だった可能性が高いと考えてよいのではないかと思います。

 

※ 前の記事でこの時代は既に脇差(打刀)が主流で、鞘巻(太刀)は日常的では差すことは無かったのではないかと書きました。しかし信長の御供をする時にはこの鞘巻の熨斗付を差していたのではないかと思います。弥助の仕事は主人が外出する際に御供する「房・小者」と同等のものであったと思われます。弥助は京都に現われた初めての黒人であり、弥助がいるだけで人々の注目を集めました。これもまた「房・小者」の派手な身なりと相通じるものがあると思います。

 

※ もちろん弥助は特殊なケースであり、「房・小者」的な身分であっても、本能寺の変がなかったら、将来的には出世する可能性があったかもしれませんが、なかったかもしれません。

「鞘巻の熨斗付」について(その4)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その3)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇

 

しつこいようですが大事なことなので繰り返します

弥助が拝領した「鞘巻の熨斗付」は「鞘巻の太刀(糸巻の太刀)」ではありません。弥助が拝領したのは「鞘巻(短刀)」です。

 

※ ところで「鞘巻の太刀」について書き忘れたことがあるので追記します。

『古事類苑』

〔刀劍記下〕一鞘卷之太刀 是柄鞘卷タル太刀ナリ、鞘ハ鞘口ヨリ足アイヲ糸ニテ柄ノ如ク卷ナリ、此太刀ハ不帶シテ輿ノ內ニ入置コトナリ、輿ヨリ出ル時ハ人ニ持セテ置故、持太刀トモ云ナ中リ○中略 但、鞘卷ノ太刀ニ股寄芝引有ハ鎧ノ上ニ帶也、

つまり「鞘巻の太刀」は、人に持たせておくので「持太刀」という、とあります。通常は腰に帯びなかったようです。ちなみに

公家にては、糸巻太刀を持太刀となしこれを帯せらるゝことなし、武家は衣冠直垂、狩衣大紋着する時、野太刀鞘巻太刀意に任せて帯するなり

(河島台蔵 著『稿本本朝鐔談』,藤塚中国堂,昭和9)

という記事もあります。先に「公家には是を用ひず」(『軍用記』)という記事を紹介しましたが、公家も用いる(ただし帯しない)と書いてあります。「鞘巻太刀」と書いてあるから江戸時代の話でしょうか?それはともかく、武家においても「衣冠直垂、狩衣大紋着する時」に任意に帯すると書いてあるので、日常的に帯するものではありませんね(戦では差したかもしれませんが)。

 

で、「鞘巻」に戻って、

「鞘巻」は別名「腰の物」「腰刀」「小刀(チヒサガタナ)」。なぜ「鞘巻」と呼ぶのかといえば、片手で刀を抜くときに鞘も抜けてしまうので、下げ緒を鞘に巻き付け、帯にからげおくからとも、上古に刀の鞘を葛で巻いたのを真似て、鞘に刻み目をつけて葛を巻いたような模様にしたからとも言うそうです。

 

ちなみに短い刀といえば脇差ですが、本来の脇差は腰に差すのではなく、懐中に隠し持った刀だそうです。足利義政の頃に「腰刀(鞘巻)」の代わりに身分の低い者が外に出して差すことを始めたようです。懐中に隠し持っていたので元はもっと短かったのが、だんだん長くなったそうです。打刀になったのは信長・秀吉の頃ではないかということです(『安斉雑考』)

 

もし、打刀の「脇差」が信長の時代の主流だったとしたら、助が拝領した短刀の「鞘巻(腰刀)」でさえ、日常では差すことはなかったのではないかと思います。

 

・熨斗付のことを書くつもりでしたが、それはまた次回。