「鞘巻の熨斗付」について(その3)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その2)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇

 

これまでに書いたことを簡潔に言えば

弥助が拝領した「鞘巻の熨斗付」は「鞘巻の太刀(糸巻の太刀)」ではない。

ということであります。こんな簡単なことでも証明するには大変な労力を必要とするのであります。

 

ところで、研究者の平山優氏は

黒人が、信長自身から「弥助」を与えられたのは、他の待遇とあわせて異例です。だからこそ、太田牛一も『信長公記』に記録したのでしょうし、『家忠日記』にも当時から有名な話だったので記述したのでしょう。しかし、弥助の待遇はその後上昇する可能性はあったのでしょうが(本能寺の変の時まで側にいたことがなによりの証拠)、名字を与えられるまでには至っていないと考えます。でも、名字なしだから侍ではないというのは、短絡的です。鞘巻の熨斗付を拝領しているのですから、武士待遇です。『古事類苑』には、「武家しか指せない」と明記してあります。 #弥助

https://x.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/1814543145054707907

『古事類苑』には、「武家しか指せない」と明記してあります。

と主張しています。『古事類苑』のどこにそんなことが明記されているのか、探したのですが未だに見つかりません。それらしきものとして、伊勢貞丈の『軍用記』の記述があります。

卷太刀は武士の太刀也、公家には是を用ひず、

また同じく伊勢貞丈『刀剱問答』の

糸卷の太刀といふ事は、本式太刀の柄をば糸にて卷かぬ物也、公家に帶せられ候太刀も品々有之候へ共、柄を卷事無之候、古武家にて帶し候白太刀黑太刀と申も、柄を卷事無之候、しかれども糸卷柄は軍陣に帶し候太刀にて有之間柄を卷候也、柄を卷事は手だまり有てよろしきゆへ卷候也、依之糸卷の太刀と申候、

という記述があります。これが果たして武家しか指せない」と明記してあると言えるのか甚だ疑問であります。

 

(1)これは「公家には是を用ひず」であって、「指せる・指せない」の話ではありません。禁じられてるから「指せない」のではなくて、公家は指す必要が無いから指さないだけの話でありましょう。なぜ指す必要が無いかといえば、武家は実戦で太刀を使用し「柄を卷事は手だまり有てよろしきゆへ卷候也」だから、戦に参加しない公家は太刀の柄に糸を巻く必要がないからでありましょう。

(2)そもそもこれは「公家」と「武家」の対比の話であって、「武家」の内部の話ではありません。この話を武士階級のみが使えて、下層の中間・小者は使えないというような話として理解することはできないと思います。

 

そして『古事類苑』には『御供古實』(伊勢貞藤1432-1491)の

大かたびらの時さし候はんずる刀は鞘卷にて候、中間も同前に候、然共さやまきなくば中間は例式の刀不苦候歟、同はさやまき可然候、主人はさやまきならでは叶候間敷候、

という記述も載ります。「大かたびらの時」の意味は自分にはわかりかねますが、おそらく足利将軍の祝いの儀式に出仕するに際しての装束ではないかと思います。その時の刀は「鞘巻」で、中間も同じく「鞘巻」だと。ただし中間は「鞘巻」が無ければ「例式の刀」でも良いという意味だと思います。

※「同はさやまき可然候」の意味はわかりません。「同」は「同朋衆」かもしれません。

 

というわけで、「武家しか指せない」が「武士階級しか指せない」という意味ならば、古事類苑』にはむしろ「鞘巻(短刀)」は中間も指せる(指すべき)ことが明記してあるのです。

 

もちろん、ここに書いてあるのは「鞘巻」のことであって「鞘巻の熨斗付」のことではありません。では、「鞘巻の熨斗付」についてはどうかといえば、それはまた後ほど。

 

(つづく)

「鞘巻の熨斗付」について(その2)(黒人弥助についてのあれこれ)

「鞘巻の熨斗付」について(その1)(黒人弥助についてのあれこれ) - 国家鮟鱇

 

古は無之さや卷の刀と云物は有之候、後世糸卷の太刀を、鞘卷の太刀とよびならわし候、甚あやまりにて候。(『刀劔問答』)

軍陣には糸巻(是を今時さやまきの太刀といふはあやまりなり(『軍用記』)

又近世糸卷太刀を、さや卷太刀といふは誤也(『軍用記』補)

今世糸卷ノ太刀ノ事ヲ鞘卷ノ太刀トヨブハ大ニ誤ナリ(『安斉雑考』)

このように伊勢貞丈(1717-84)が「今時」「近世」「今世」に「糸巻の太刀」を「鞘巻の太刀」と誤って呼んでいると書いています。弥助と織田信長の出会いは天正9(1581)年です。信長の時代から「鞘巻の太刀」という呼称があったとしたら、伊勢貞丈が、「今時」「近世」「今世」と書くのは甚だ不自然に思います。

 

そして『信長公記』(尊経閣文庫本)に

然に彼黒坊被成御扶持、名をハ号弥助と、さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、依時御道具なともたさせられ候

と書かれている「さや巻之のし付」が「鞘巻の太刀」(当時は「糸巻の太刀」と呼ばれてたはず)だという可能性はほぼ無いと思います。「鞘巻」と「鞘巻の太刀」は全く違うものだと言っていいでしょう。

 

もうこれで十分だと思いますが、さらに言えば「糸巻の太刀」は古より武士が用いた刀で進物にも「糸巻の太刀」を多く用いたそうです。室町時代軍の初期には「正真」(刀工の流派)の太刀を進物にしたそうですが、室町中期からは刀身の代わりに少しばかりの鉄を身にしてたそうです。つま進物用の糸巻の太刀は本物の太刀では無かったようです(なお上には鉄と書きましたが木刀やなまくらを使ったと書いてるのもありました)。よって、弥助が拝領した太刀が万々一「糸巻の太刀(鞘巻の太刀)」だったとしても、使い物にならない代物だった可能性が高いと思われます(信長の時代には本物を使った可能性も無いとはいえませんが)。

 

もうこれで十分だと思いますが、さらに言えば、そもそ太刀とは何か?という話でございます。大雑把にいえば「太刀は刃が下向きの刀」といえるでしょう。一方「打刀は刃が上向きの刀」です。信長の時代は既に「打刀」が主流になってました。太刀は、公家では儀式用に使用してました。一方武家では実戦で使用しました。しかし、信長の時代には武家においても太刀は儀式用のものとなっていたと考えられます。よって、弥助が拝領した太刀が万々一「糸巻の太刀(鞘巻の太刀)」だったとしても、儀式用に使うことはあっても、日常で差すことは無かったのではないでしょうか

 

※ もちろん、俺は前の記事に書いたように刀剣の勉強を始めて数日のド素人ですので、誤りがあるかもしれまん。おかしなところがあったら指摘してくださいませ。