「鞘巻の熨斗付」について(その1)(黒人弥助についてのあれこれ)

はじめに)俺は刀剣の知識ほぼ皆無です。だから「鞘巻の熨斗付」についての議論はスルーしてました。でも数日前から気になってきたので刀剣の勉強しました。そんで色々調べたんですけど、どうも「鞘巻の熨斗付」の議論は根本的なところで、おかしなことになってないだろうか?ということです。いや刀剣について詳しい人は大勢いて、初心者の俺が勘違いしてるのかもしれないけど。刀剣初心者ですので、間違ってるところあったら指摘してくだされば幸いです

 

(事の発端)弥助騒動の発端は略。「鞘巻の熨斗付」の発端について。歴史学者の平山優氏のXのポスト(2024年7月20日午前2:47) 

なんか、織田信長に仕えた黒人の弥助の話題になっているみたい。彼に関する史料はかなり乏しいが、信長に仕える「侍」身分であったことはまちがいなかろう。出身の身分がどうであれ、主人が「侍」分に取り立てれば、そうなれたのが中世(戦国)社会。なんでそんなことが言えるかといえば、①信長より「扶持」を与えられている、②屋敷を与えられている、③太刀を与えられている、と史料に登場するから。「扶持」を与えられ、信長に近侍しているということは「主従の契約」「扶持の約諾」という重要な用件を満たしている。また、太刀を許されているので、二刀指であり、下人などではない(下人には刀指が認められていない)ことも重要。ましてや、屋敷拝領ならば、疑問の余地はない。宣教師の奴隷を、信長が譲り受けたところまでは、奴隷だったのだろうが、上記の①~③により、彼の意思によって「侍」分になったのだろう。本能寺の変時に、明智方が「動物」「日本人に非ず」などとして殺害しなかったというのは、それは明智が弥助を「侍」と認定しなかった(差別意識があったのだろう)だけにすぎない。身分が低い者を、主人が「侍」に取り立てることは、当時としては当たり前であった。そもそも、秀吉って立派な事例があるじゃんね。

https://x.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/1814356500326035650

信長に仕える「侍」身分であったことはまちがいなかろう。

③太刀を与えられている、と史料に登場する

また、太刀を許されているので、二刀指であり、下人などではない(下人には刀指が認められていない)ことも重要。

と主張。次に(2024年7月20日午後2:29)

①「さや巻」(鞘巻)について 各所より「太刀ではない、短刀だ」「ダウト」「嘘」よばわりされております。これは、普通の辞書レベルならばそう思われても仕方ないかも知れないですね。でも、「鞘巻」は「鞘巻之太刀」を示す場合が多いのはご存じでしょうか。鞘巻の太刀は、現在でも現物が残っている場合が多いです。ちなみに、歴史学者であれば、調査する場合の参考史料として、『古事類苑』『武家名目抄』は普通に当たるわけですが、そこには数多くの史料からの引用があります。

https://x.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/1814532990330155267

「さや巻」(鞘巻)について 各所より「太刀ではない、短刀だ」「ダウト」「嘘」よばわりされております。

でも、「鞘巻」は「鞘巻之太刀」を示す場合が多いのはご存じでしょうか。

次に(2024年7月20日午後3:09)

黒人が、信長自身から「弥助」を与えられたのは、他の待遇とあわせて異例です。だからこそ、太田牛一も『信長公記』に記録したのでしょうし、『家忠日記』にも当時から有名な話だったので記述したのでしょう。しかし、弥助の待遇はその後上昇する可能性はあったのでしょうが(本能寺の変の時まで側にいたことがなによりの証拠)、名字を与えられるまでには至っていないと考えます。でも、名字なしだから侍ではないというのは、短絡的です。鞘巻の熨斗付を拝領しているのですから、武士待遇です。『古事類苑』には、「武家しか指せない」と明記してあります。 #弥助

https://x.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/1814543145054707907

鞘巻の熨斗付を拝領しているのですから、武士待遇です。『古事類苑』には、「武家しか指せない」と明記してあります。

と主張。

 

このうち、まず「鞘巻」は「太刀ではない、短刀だ」について。これが非常にややこしいのです。

 

結論から言えば「鞘巻」は「短刀」です。

ただし「鞘巻の太刀」は「長い刀」です。

「鞘巻」は短刀なのに「鞘巻の太刀」が長い刀だというのは、おかしな話ですが、これは

「鞘巻の太刀」というのは本当は「糸巻の太刀」のこと

というややこしい理由があります。

 

次に「鞘巻」は「太刀ではない、短刀だ」

ですが、「鞘巻」も太刀です。「太刀ではない、短刀だ」は「動物ではない、犬だ」と言ってるようなものだと思われます。けれど一般には「太刀と言えば長い刀」というイメージがあるのだと思います。実際短刀のことを「太刀」と呼ぶことはあまり無いのではないかと思います。

 

「鞘巻の太刀」はなぜ「鞘巻の太刀」と呼ばれるかといえば、既に書いた通り本来は「糸巻の太刀」と呼ばれていたからだと思われます。「糸巻の太刀」は長い刀です。

 

つまり、太刀=長い刀だから「鞘巻の太刀」と呼ばれるのでな元は「糸巻の太刀」と呼ばれていたものが変化して「鞘巻の太刀」と呼ばれるようにになったからだと考えられます。

 

さて、『信長公記』(尊経閣文庫本)には

然に彼黒坊被成御扶持、名をハ号弥助と、さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、依時御道具なともたさせられ候

と弥助が「さや巻之のし付」したことが記されてます。普通に考えればこの「さや巻」は短刀です。ただし、絶対そうかといえば、著者が「鞘巻の太刀」を「鞘巻」と略して記した可能性は無いとは言い切れないかもしれません。ただし、

又近世糸卷太刀を、さや卷太刀といふは誤也(『軍用記』)

と書いてるのは伊勢貞丈(1717-84)です。18世紀の人物が「近世」では「糸巻太刀」を「鞘巻太刀」と呼んでいると書いているのです。一体いつから「鞘巻太刀」と呼ばれるようになったのでしょうか?言うまでもなく織田信長は16世紀の人物です。その頃すでに呼ばれてたのでしょうか?そこのところは現時点では調べ切れていません。

(もちろん『信長公記』(尊経閣文庫本)の成立時に既に「鞘巻太刀」の呼称があった可能性も考慮しなければならないです)

 

と、ここまででも、この問題が非常にややこしい問題だということがわかると思います。

 

(とりあえずここまで。これはまだ「鞘巻の熨斗付問題」の一部であって続ける予定。あと出典についても後に記す予定)

 

(訂正11:20分)「長刀」だと「薙刀」の意味になるとの指摘がありましたので「長い刀」に訂正しました。

織田信長の鉄炮三段撃ちとは何か?という素朴な疑問

長篠の戦いにおいて、織田信長鉄炮三段撃ちの戦法を用いたことは有名。だが実は三段撃ちは無かったということも言われて久しく、現在ではほぼ定説となっている。

 

俺も今まで三段撃ちは無かった説を支持しているし、今も支持しているかといえば支持している。ただし、ある素朴な疑問が浮かんできたのである。

 

一般に鉄炮三段撃ちは比較的信用できる太田牛一の『信長公記』には載らず、信用性の劣る小瀬甫庵の『信長記』に載るとされる。もちろん小瀬甫庵の『信長記』は信用性の劣る史料であり、三段撃ち虚構説の根拠となりえるものである。

 

ただし、この場合、そもそも鉄炮三段撃ちとはどんな戦法なのか」という基本中の基本がなおざりにされているように思われる。

 

『日本の合戦 第5巻 (織田信長)』(桑田忠親 編集 1965)の「天下布武」(井上鋭夫)「長篠の戦い」では

がんらい鉄砲を一番早く手に入れて研究した大名は武田信玄だといわれている。だが信玄は鉄砲は実戦ではあまり役に立たないと考えた。つまり火縄銃は、戦争の間中、火縄の火を消してはならないから雨の日は使用できない。また一発撃つと硝煙をふきとり、弾丸と火薬をこめて、肩へあてて火を点じるから、一発うってから次の一発までにかなりの時間がかかるのである。その有効射程は100メートルぐらいであるから、最初の一発をかわした敵兵はそのまま突っこんでくることができるわけである。そこで信玄は竹でつくった盾を持たせ、二発目までに突入する戦法をとったのである。

とする。そして

 しかし信長は一発目と二発目の時間をなくする工夫をした。彼の約三千挺の鉄砲組を三段に配置し、第一列が発射すれば、第二列が前に出て発射し、ついで第三列が発射する。そのときまでに第一列の玉ごめが完了している。これは多数の鉄砲を揃えればできることで、先進地帯、とくに国友村(滋賀県)や根来(和歌山県)のような鉄砲生産地を手に入れた信長にして、はじめてできる戦法であった。

と解説している。これが一般的に理解されている「信長の鉄炮三段撃ち」であろう。

 

それに対し、小瀬甫庵の『信長記』に何と書いてあるかといえば、

信長公先陣へ御出あつて、家康卿と御覽じ計らはれ、兼て定め置かれし諸手のぬき鉄炮三千挺に、佐々内蔵の助、前田又左衛門の尉、福富平左衛門の尉、塙の九郞左衛門の尉、野々村三十郞此五人を差添へられ、敵馬を入れ来らば、其間一町迄も鉄炮打たすな、間近く引受け、千挺づゝ放ちかけ、一段づヽ立替り〱打たすべし、敵猶強く馬を入れ来らば、ちつと引退き、敵引かば引付けて打たせよと下知し給ひて(『信長記 上 (日本歴史文庫) 』

である。両者を比較するといくつか違いがある。

 

その最大のものは「そのときまでに第一列の玉ごめが完了している」に類することが一切書かれていないことである。『信長記』で信長が命じていることは、三千挺の鉄炮を三組に分けて、千挺ずつ撃てということだけであり、その間に弾込めを完了し2回目の射撃に備えよといったことは全く書かれていないのだ。少なくともその部分は小瀬甫庵は明記しておらず、いつのことかは調べ切れてないが、後世の誰かが付け加えたのだろうと思われる

 

一町は約109メートルだという。『日本の合戦 第5巻 (織田信長)』で火縄銃の有効射程は100メートルぐらいとある。つまり敵が射程圏内に入ったら一斉射撃しろと信長は命じたということになる。一方、同書によれば武田軍は一発目をかわしたら二発目までに突っ込む戦法を取っていたとある。よって一発目をかわして突っ込もうとしたところに二発目が間を置かずに撃ち込まれたら大きなダメージを受けるだろう。さらに三発目を撃たれたのだからたまらない。果して四発目は必要だっただろうか?四発目が撃てるのであればそれに越したことはないだろうけれども…

 

繰り返すが、小瀬甫庵の『信長記』は信用性の低い史料である。そもそも鉄炮三千挺自体が疑問視されている(ただし本当にありえない数なのかは俺は保留)。だが、四発目、五発目を想定した戦法だということは、小瀬甫庵の『信長記』からは明確には読み取れない(読み取ろうと思えば不可能ではないかもしれないが)。

 

よってこの点についての批判を小瀬甫庵に対してするのは妥当ではないように俺には思える。

 

※ なお小瀬甫庵の『信長記』と同じく槍玉にあがることの多い『日本戦史 長篠役』だが、こちらも

然レトモ彼ノ方サニ前進スル時遽ニ銃ヲ發スル勿レ其既ニ逼ルニ及ヒ千挺ツヽ代ル々々發セシメヨト

とあり、一発目を撃ったら後方に回って弾込めしろと命じたといったことは書かれてないようだ。

 

※ さらに大きな目で見れば甫庵『信長記』で一番活躍してるのは徳川家康の鉄砲隊であり、たとえば山県昌景隊3000余騎は家康の鉄炮足軽300人に過半が打倒され、残りが鉄炮三千挺で射竦められ、残り少なくなって引いたとある。

 

※ さらに論じたいことがあるけれど、とりあえずここで区切る