范可(斎藤義龍)について(その2)

   合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしたりけり。是れより後、新九郎はんかと名乗る。古事(こじ)あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者(かのもの)、父の頸を切りて孝となるなり。今の新九郎義龍は、不孝、重罪恥辱となるなり。

信長公記』(新人物往来社)より

信長公記 (上) 』(教育社新書―原本現代訳) の訳は

これから後義竜は、新九郎范可と名乗った。これには故事があって、昔唐(もろこし)に范可という者があって親の首を切った。しかしそれは親の首を切ることが孝となるからであったが、今の新九郎義竜にとっては、不孝の罪重く、恥辱ともなるものであった。

も唐の「はんか」を「范可」と表記しており、義龍の「范可」と同じにしている。同じだという根拠はどこにあるのかといえば、結局は義龍の「范可」は唐の故事にちなんだと解釈しているということになるだろう。

 

 

次に『岐阜市史』(昭和3)。

義龍は、道三と戦端を交ふるに當つて、自ら范可と號した。これ、唐代范可の故事を採つて得意としたものである。

とある。道三の生前に范可と名乗っていた史実に沿っているが、「唐代范可の故事を採つて」は『信長公記』によるもの。ただし既に書いたように「唐」が「唐代」の意味かは疑問だし、故事を採ったとする解釈も疑問。

 

次に 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』

信長公記』はこの范可の名の由来を、中国の父の頸を切って孝となった故事に求めているが、義龍は道三と戦うまえから范可と称しているのであるから、これは作者太田牛一の創作であろう。

とする。上の説明とは違うが、ここでも『信長公記』は故事にちなんだと書いてると解釈してる点では同じ。

 

次に『 中世武士選書 斎藤道三と義龍』(横山住雄)

范可というのは昔の中国の人で、父を殺したことから、父殺しと言えば「范可」が代名詞になっていた。道三が義龍の父でなければ、父殺しでもないから范可とも改名しなかっただろう。改名した時はまだ父を殺していないが(実行は四ヶ月後)、父を殺して政権を奪うという闘志に燃えていたことになる。

 とある。「はんか」の故事が書いてあるのは『信長公記』だけだと思うのだが、『父殺しと言えば「范可」が代名詞になっていた』とかなり飛躍したことが書いてある。特に注目すべきは、「父の頸を切って孝となった故事」が、ただの父殺しの話になっている。全く理解に苦しむ。ちなみにこの本の初版は2015年。「はじめに」によれば平成6(1994)年に書いたものを踏襲したものだそうだが、比較的最近の研究がこんなだとは驚きである。

 

しかし、根本的な問題は信長公記』は義龍は唐の故事によって范可と名乗ったと書いているのか?ということだ。

 

俺はそうではないと思う。これは「是れより後、新九郎はんかと名乗る」で区切るべきものであろう。そのあとの「古事あり」は故事によって「はんか」と名乗ったという意味ではなくて、『義龍は「はんか」と名乗ったけれど、「はんか」といえばこういう故事がある』と解釈すべきものだと俺はかなりの自信を持って考える。

 

 

※ 似た事例としては信長の「岐阜」命名がある。一般に周の故事によって岐阜と命名したという説が流布しているけれども、『政秀寺古記』を素直に読めば、まず「岐阜」・「岐陽)」・「岐山」の3つの候補から信長が「岐阜」を選び、そのあとに沢彦に「岐阜」にちなんだめでたい話を問うたところ周の故事を話したのであって、周の故事から「岐阜」と命名したという話ではないのだ。

范可(斎藤義龍)について(その1)

 斎藤義龍が父の斎藤道三を討った長良川の戦い。 『信長公記』(新人物往来社)より 

 合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしたりけり。是れより後、新九郎はんかと名乗る。古事(こじ)あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者(かのもの)、父の頸を切りて孝となるなり。今の新九郎義龍は、不孝、重罪恥辱となるなり。

 

〇 [弘治2年4月(1556年4月)20日 ]合戦に勝って首実検で父の道三の首が持ち込まれた。この時、義龍はわが身より出た罪だとして得度(出家)した。これより後「新九郎はんか」と名乗ることになった。

 

ここまでは問題ないだろう。「はんか」は「范可」と書く。『信長公記』によれば、父を殺した罪により出家して「范可」と号したのだから、これは法名ということになる。ただし史実では前年の弘治元年12月に「范可」と署名した文書がある。なおウィキペディアには『美岐阜市史中世 古代・中世』を出典として

『美江寺文書』によれば弘治元年(1555年)12月、「斎藤范可」名で同寺に禁制を出している。

とあるが、実際の『美岐阜市史中世 古代・中世』には

翌弘治元年一二月には、 范可と署名した禁制を美江寺に与えている」

とあり、「斎藤范可」ではなく「范可」である。 なお年号不明ながら12月11日付桑原右近衛門宛文書に「新九郎范可」の署名あり。またこの4月20日付桑原甚三宛文書に「范可」の署名あり。 よって、「范可」を名乗ったのは父を殺すより前のことではある。

 

 しかしながら、『信長公記』においては父親殺しの後に名乗ったことになっているからには、それを前提に解釈しなければならない。なぜそんなことをしなければならないかといえば、なぜ「はんか」という名乗りにしたのかという問題に関わるからである。

古事(こじ)あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者(かのもの)、父の頸を切りて孝となるなり。今の新九郎義龍は、不孝、重罪恥辱となるなり。

俺の解釈を先に書く。

 

「唐」とあるのは「唐代」とは限らず「唐土」という土地を指してると俺は思う。とにかく昔「はんか」という人物がいた。彼はどういう理由かは不明だが親の首を切った(殺した)。儒教で親殺しは大罪である。ところが「はんか」の場合は親を殺したにも関わらず「孝(親によく仕えること)」をなしたのだという。この故事の出典は現在不明だという。よって具体的にはどんな話なのか全く不明である。しかしながらそれがどんな話であれ(そもそもそんな故事自体が存在しないのだとしても)「はんか」がなしたことは儒教の徳目である「孝」に沿ったものだという認識があることだけは確かであろう。

 

それに対して龍興のなしたことは「孝」に反したものであることは明らかである。この道徳の元では現代的な「正当防衛」など正当では全くない。親が死ねといえば死ななければならない。子は親に絶対服従しなければならないのだから。義龍のなしたことはまさに「不孝、重罪恥辱」であり、どう言い訳しようと覆しようがない(もしかしたら道三と義龍が実の親子ではないという説はそれがために作られた可能性があるかもしれない)

 

で、ここに一つの大きな問題がある。義龍の「范可(はんか)」がこの唐の故事にちなんだものだという説があるのだ。

 

俺の解釈だとそれはありえない。唐の「はんか」にちなんだとするなら、義龍は父の道三を殺したのは親孝行だと主張していることになる。しかし、それはあまりにも無理がある。誰もそれに納得しないだろうし、義龍自身もそれで人を納得させることが可能だと考えるとは到底思えない。

 

また史実では范可と名乗ったのは、父を殺すよりも前のことである。「はんか」は父の首を切った人物で、それにちなんだのなら、その時点で父を殺すと決意していたことになる。それだけならまだ可能性があるが、既に説明したように、単に父を殺すというだけではなく、それを親孝行だと考えていたということになるが、まずあり得ないことだろう。

 

さらに『信長公記』は「はんか」と表記している。なぜ漢字で書かなかったかといえば、唐の「はんか」と義龍の「はんか(范可)」の文字が異なるからではないだろうか?「はんか」という音が同じだから仮名で「はんか」と書いたということだと俺は思う。

 

そして『信長公記』では、義龍の「はんか」は法号である。法号に唐の「はんか」という人物の名を使うなどということがあり得ようか?そんな例があるなら教えてほしいものだが、おそらく無いであろう。なお唐の「はんか」が法号ということはおよそ有り得ないのではないか?親殺し以前に殺生は仏教の戒律に反する。日本じゃその点が守られてなくても違和感なかったりするけど。

 

以上の理由で、俺は信長公記』は、義龍が唐の「はんか」にちなんで「はんか」と名乗ったなどとは書いてないと解釈するし、史実としても義龍が唐の「はんか」にちなんで「はんか」と名乗ったということはおよそ有り得ないと考える。というか、ちなんだという考えはバカバカしいとさえ思う。

 

ところが、調べていくと、ちなんだ説というのは昔からあり、さらに今もこれを採用している歴史学者がいることがわかって愕然としているのであった。

 

(つづく)