妻木氏の謎(その4)

妻木氏の「諱の謎」についてはほぼ解明できたのではないかと思う。『寛永譜』『寛政譜』の誤った情報は広く採用され、その誤まりを修正しようとする研究も今のところ無いように思われる。また「妻木玄蕃」について記された論文も複数あるようだが、彼が何者かが不明確で宙に浮いているようにも思われる。その他妻木氏に関する断片的な情報はあれども、それらを総合して分析した研究も見られないように思われる。

 

まだまだ謎は残っているのだが、これ以上調べるのは困難な段階になってきた。今後も情報を収集し分析していきたいとは思ってるが、今のところは無理。

 

今後のために現在気になってることを記しておく。

 

〇『岐阜県土岐郡妻木村史』に妻木の八幡宮の願文が載る

今度諸太夫位を望申候相調而外實を仕合可然樣にて可罷歸事

(略)

慶長拾六年三月吉日妻木雅樂助家賴 花押

 

「今度諸太夫位を望申候」とある。「諸大夫」とは武家で五位相当の者。雅樂助は正六位下相当。玄蕃頭は従五位下相当だそうだ。慶長16年の家頼は六位の雅樂助で、五位への昇進を望んでいたということだろうか。なお慶長19年10月12日付の願文でも妻木雅樂助家賴となっている。『寛永譜』『寛政譜』の「頼忠(くどいようだが本当は家頼)に「従五位下」とある。ただし『寛政譜』によれば、

九年洛に上らせたまふのときしたがひたてまつり、從五位下長門守に叙任す。このとき病にかゝり京師にとゞまり、十月二日かの地にをいて死す。年五十九。

とある。つまり従五位下に昇進したのは元和九年でその直後に死去。諸史料に見える妻木玄蕃が妻木家頼のことだとすれば、六位で玄蕃頭を称してたことになる(自称ならそういうことは珍しくないだろうけれども)。

※なお本当に元和9年10月2日に死去したのか?(従五位下長門守叙任のために生きてることにしたのでは?という憶測をしたくなったりもするが保留)

 

 

「日本歴史地名大系 「妻木村」の解説」

元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本妻木玄蕃頭領、

とある。妻木玄蕃頭=妻木家頼だと考えられる。ところで『大日本史料』に

〔妻木八幡神社文書〕○美濃(表紙)「元和七年正月吉日妻木村傳入樣(妻木貞德)御撿地帳田方」

というのが収録されている。

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妻木傳入(くどいようだが妻木頼忠)は家頼=玄蕃頭(くどいようだが『寛永譜』では頼忠)の父。『寛永譜』では傳入は元和4年死去。ただし『寛政譜』に「今の呈譜元和六年八月九日死す』とあり、『岐阜県土岐郡妻木村史』でも「元和六年八月卒」。元和6年に行われた検地を7年正月吉日付で文書にしたということだろうか。検地帳に詳しくないので良くわからない。

 

〇『大窯期工人集団の史的考察 : 瀬戸・美濃系大窯を中心に』(藤澤良祐)に「史料7 妻木伝兵衛達書」あり。

cir.nii.ac.jp

慶長20年正月11日付文書。「伝入」の署名。

右之通雅楽助二可申候間、早々かまやきこさせ可申候

とあり。慶長20(1615)年でも家頼は雅樂助だと思われる。

先の「日本歴史地名大系 「妻木村」の解説」

元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本妻木玄蕃頭領、

とあり、この史料に「妻木玄蕃頭」と書いてあるのなら1615年~1616年の間に雅樂助から玄蕃頭になったことになるだろう。

 

(追記1/13)

寛永諸家系図伝 1』(続群書類従完成会)の「松平乗寿(のりなが)」慶長19年に

同年十月、大坂陣の時、乗寿召に応じて二條の城にいたり、美濃衆稲葉内匠頭・遠藤但馬守・竹中丹後守・稲葉右近・平岡牛右衛門・大嶋一黨・高木一黨・妻木玄蕃助・遠山勘右衛門・尾里助右衛門等と同しく、御先手としてひらかたにおもむく。仰によりて乗寿その組頭となる。

「妻木玄蕃助(頼忠カ)」と注記してある。「頼忠」はくどいようだが本当は「家頼」。慶長19年妻木八幡宮の願文に「妻木雅樂助家賴」とある。よってこの時点で「玄蕃」ではないはず。それは後世史料によくあることだが「玄蕃頭」ではなく「玄蕃助」になってるのが多少気になる。

 

(追記1/13)

岐阜県産業史』に妻木の八幡宮の元和7年10月11日付願文が載り「妻木玄蕃頭 嘉忠」とある。

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「妻木雅樂助家賴」が「妻木玄蕃頭嘉忠」になったのは確実だと思われる。玄蕃頭になったと同時に嘉忠に名を変えたのかは依然として不明。

 

 

(追記1/13)

岐阜県郷土偉人伝』に妻木家頼の伝記が載っている。

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妻木雅樂助家頼は傳兵衛頼忠の嫡男と正しく記す。ただし

元和三年夏從五位下に叙し長門守と稱した。同九年十月二日卒去し、妻木の崇禪寺に葬つた。

とある。『寛政譜』には

九年洛に上らせたまふのときしたがひたてまつり、從五位下長門守に叙任す。このとき病にかゝり京師にとゞまり、十月二日かの地にをいて死す。年五十九。

と元和9年に從五位下長門守に叙任、その年10月2日に死去で食い違う。元和3年叙任と書いた史料が存在するのだろうか?さらに

その子藤右衛門賴次遺領の內七千石を繼ぎ、弟源次郞幸廣に五百石を分知せしめた。

とあるが、もちろん家頼の子は頼利であり、頼次・幸広は頼利の子すなわち家頼の孫である。なぜか一代飛んでしまっている。

 

(追記1/13)

「妻木伝入画像及び妻木家頼画像」は2021年に土岐市指定有形文化財となった模様。

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家頼像は、
元和9(1623)年の仲秋(8月)に描かれており、
正装の家頼は、この年に従五位下長門守に叙任されるが、
その時の姿を描いたものと考えられる。
家頼は、叙任直後に病にかかり、
そのまま京に留まり療養するが、10月に没した。

と解説されている。「元和九癸亥仲穐(仲秋)良辰」は画賛を書いた日付ではないのだろうか?画像も同時期に書いたとして「大居士寿像」とあるのはどう解釈したら良いのだろうか?

画賛を書いたのは崇禅寺の中興・清厳和尚。家頼は上洛して京都で没した。崇禅寺土岐市)の清厳和尚はどこで画賛を書いたのだろうか?

 

妻木氏の謎(その5)につづく。

妻木氏の謎(その3)

この記事は2018年にツイッターで考察したことを思い出しながら書いている。妻木氏の諱の謎はほぼ解けたと思う。だが妻木氏の謎はまだあったことを思い出した。

 

諱を修正した上で『寛永譜』『寛政譜』を見れば

(1)妻木藤右衛門廣忠は明智光秀の叔父で天正10年光秀滅亡の時に近江坂本西教寺で自害。

(2)その子の頼忠(傳入)は本能寺の変後に家督を子の家頼に譲り妻木村に閑居。慶長5年関ヶ原合戦時に西軍方の岩村城主田村具安(直昌)に息子の家頼と共に戦う。(『寛永譜』での諱は貞徳で子が頼忠)

(3)頼忠の子は家頼(雅樂助 長門守)。関ヶ原の時に父と共に戦う。(『寛永譜』での諱は頼忠)

(4)家頼の子が頼利。『寛永譜』編纂は頼利の時。

※ 実は『寛永譜』『寛政譜』の記述に気になるところがあるのだがここでは略

 

前に『陶祖碑』について記したが「陶祖」とは瀬戸焼の開祖とされる加藤景正のこと。『陶祖碑』には加藤景正のことだけではなく、その子孫についても書かれている。

妻木廣忠為明智光秀驍将戦死於阪本城子頼忠為光秀妹婿関原之没岩邨城主田丸中務黨大阪頼忠與之戦斬旡數東照公命堅守妻木城大阪没又有戦功世領土岐郡十二町邨

多治見-陶祖碑の原文

これは加藤一族が妻木氏に仕えて戦功を立てたことに関して記しているのである。妻木廣忠の子が頼忠で、関原役で田丸中務(具安)と戦い妻木城を守り、大坂役でも戦功を立て土岐郡12町村を領すと。『寛政譜』の妻木氏の事績とほぼ一致するといって良いだろう。そして加藤一族はそれらの戦いに従軍したということだろう。

 

ところで『久々利村誌』に『陶祖加藤由来記』という史料が収載されている。

天正九年に加藤伊之介實父の名を取り加藤伊右衛門尉景山と改名して罷越成則五郞右衛門之娘初を妻にむかへ、双方とも品々の器物燒年月の星霜を經る內に妻木殿の御用窯と成り、此の後天正十年の頃景豐舍弟加藤與三兵衛景光は同所郷遠き山に能土を見屆く、夫より久尻村へ罷越燒出べく由舍兄の景豐に談せし處、夫れは何分いとやすきとて軈而妻木の城主に被相願候處早速達上聞勝手に可燒出と有て同拾壹年末の春久尻村へ出大窯を建燒出す。尤も景光の嫡子四人有り惣領四郞右衛門尉景延、後に人位して加藤筑後守景延と號。二男彌左衛門尉景賴、三男太郞右衛門尉景盛、四男庄左衛門景忠。右兄弟四人の嫡子等いづれも當地に住居して燒物職に勵精力故に妻木玄蕃之守殿の御用窯也。然る處に彼筑後守景延燒出せし器物無双なるが故に妻木殿悉く喜悅し給ふて、彼の土地の異名を窯に名付くべしと有つて末世に至る迄久尻景と言ふべし由被仰出ける。

 

去る程に慶長七年九月下旬の頃田丸武藏守と言ふ謀叛人惠那郡岩邑城主を責め亡ばさんがため下街道を步行之砌り、久尻邑筑後守聞えて彼田丸社妻木玄蕃守殿之怨敵と言ふ。勿論岩邑城主を責むる有は是則我が先祖之生國也、いで某先がけをして武藏守が首を刎ね兩所の難を免れんものと彼筑後守兄弟、親子六人其の外譜代之家人召使ひもの迄召連れ、てんてんに獲道具を用意して馳せ向ひしに折節、

(太字は筆者)

 

見ての通り「妻木玄蕃守」という人物が登場する。妻木玄蕃守とは何者か?寛永譜』『寛政譜』の妻木に玄蕃守は無い。妻木光廣という人物が玄蕃だがずっと後の人。しかし同時代に妻木玄蕃守という人物が実在するのは一次史料で確認できる。だが何者なのかがはっきりしない。

 

先日、妻木頼利宛伊達政宗書状が発見されたと報じられたが、『仙台市史 資料編12 伊達政宗文書』に「妻木玄蕃様御報(頼忠ヵ)」とあり、妻木玄蕃守は伊達政宗と交流があり妻木頼忠(実は家頼のことだろう)に比定されている。しかし『寛永譜』『寛政譜』において彼は「雅樂助」「長門守」であり「玄蕃守」とはされていないのである。

 

ただし、『岐阜県土岐郡妻木村史』所収の「妻木系図」によ

家頼 妻木長門守雅樂介 玄蕃頭嘉忠傳入頼忠之一男 元和九年十月卒 葬崇禅寺

とある。「玄蕃頭嘉忠傳入頼忠之一男」とはどういう意味だろうか?家頼は「玄蕃頭嘉忠」ともいい「傳入頼忠の長男」という意味だろうか?

 

すると妻木家頼(一般に妻木頼忠と呼ばれている)は「妻木嘉忠」でもあるということであろうか。

 

大日本史料』(伊達貞山治家記録)元和六年四月四日に

今ニ御城ヘモ出仕シ玉ハス、大形御快キ間、明日ハ登城シ玉フヘシ、其刻殿中ニ於テ逢セラルヘキ旨著サル、妻木玄蕃(嘉忠)殿ヘ御書ヲ以テ、黃鷹一居進セラル、

とある。

 

謎は解けつつあるようには思う。しかし同時にもやもやとしたものが残る。いや逆にもやもやが増しているようにさえ思う。