西部邁という保守主義者

俺は西部氏の著書を一冊も読んだことがない。ただし、新聞・雑誌に寄稿した記事でネットで読めるものがあるので、そういうのはいくつか読んだことがある。俺は一応、自称保守主義者だが、日本の著名保守系論客でこの人の考えとほぼ同じだと考える人というのが存在しない。そういうことを昔、某掲示板に書いたら、「それはお前が保守ではないからだ」とレスされたことがあるが、じゃあ俺は一体何者なんだと考えるに、革新では決してないように思うので、やっぱり自称ではあるが保守だと思っている。そんな中で時たま西部氏の主張を聞いて同意することがある。とはいえ大いに違和感がある場合も多い。(ちなみに日本に俺が考える保守主義者がほとんど存在しないと思っているわけではない。むしろ実は市井の中にいっぱいいると思っている。だが論客となると誰もが思い浮かべる保守の人を見ると、自分とは別種の人達だと感じてしまうのである)。


03/19付の
【正論】西部邁 保守の未熟が「差別」を招来する(イザ!)
に目を通した。興味深いテーマだ。しかし、頭が悪いせいなのだろうが、どうも俺の脳内で消化しきれない。西部氏の言わんとするところを理解して、俺が従来考えているところと、どこが一致して、どこが違うのか、その理由は何か、俺の考えを改めるべきか、などということを検証していこうと思えば相当な時間が必要になるような感じがする。最低でも数年はかかるかもしれないし、それでも無理かもしれない。大雑把な理解をするにしても、数ヶ月はかかるだろうが、それ以前に挫折してしまう予感。まあこれは俺がろくな勉強をしてこなかったというのが主な理由。


例えば最初の、

生活保護費に近い収入しかない者たち(貧困層)が二千数百万人もいる。そのうち半数は不正規の勤労者だという。このような現代日本の経済的な「格差」から、政治的・文化的な「差別」すらもが生じる気配でもある。

という短い文でさえ、確認しなければならないことがいっぱいある。もちろん知っている人は知っているのだろうし、極一部の人だけが知っているというものではなく興味ある人なら自明のことなのだろう。だが俺は知らない。「生活保護費に近い収入」とは何円なのか?「二千数百万人もいる」という統計はどこにあるのか?常識的に考えれば主婦のパートも含まれると思われるが、内訳はどうなっているのか?二千数百万人全てが貧困層と言えるのか?勿論、格差が広がっているという話自体はマスコミでもさんざん論じられているので事実であろうが、その「事実」でもって、上に書かれているようなことを単純に受け入れるわけにはいかない。自分の目で確かめたい。てなことを考えていると、膨大な時間がかかるだろう。


アメリカの歴史も勉強しなければならない。気が遠くなる。俺の理解するところでは、「保守主義」の元祖であるエドマンド・バークフランス革命を批判したが、一方でアメリカ革命は支持した。なぜなら、アメリカの人民は自分達の伝統を守るために戦ったからであり、逆にフランス革命は伝統を破壊したからであると思っている。フランス革命は「自由」を唱えたかもしれないが、それはバークの考える「自由」ではなく、むしろそれを侵害するものであったのだろう。そう考えると西部氏の言う「アメリカ流」はまさに「アメリカ流」という土着的なものであり、それをそのまま日本に持ち込むのは問題があるし、現代のアメリカにおいて上手く機能しているかという問題があるにはあるけれど、西部氏の考え方もずれているのではないかと感じてしまうのだけれど、知識が絶対的に不足しているので、感じるとだけしか言えない。


で、日本についてだけど、日本は本当に「アメリカ流」を取り入れたのかという点で、「アメリカ流」はアメリカ文明において誕生したのであるから、それを日本文明が取り入れようと思ったところで、それは外来宗教と同じく変容していくんじゃなかろうかと思う。外見は似ていても、精神まではなかなか冒されることはないだろう。実際のところ、新自由主義市場原理主義とは言うけれど、企業家が人件費を抑制したいと思うのは、世の常であり、何も今に始まったことじゃない。今までそう見えなかっとしたら、それは様々な環境要因によるものであって、企業家が慈善でやっていたものではない。既存の秩序が崩壊したことで、新たな秩序を作る必要があった時、たまたま新自由主義というものが存在して、便利な「看板」として導入したという面もあるのではないだろうか。かつて日本の保守政党社会主義的政策を採用したが、それは社会主義イデオロギーに染まったというわけではなかった。あくまで道具にすぎなかった。新自由主義的政策を採用しようとしているからといって、心身共に宗旨替えしたわけではないと思う。いずれ「日本文明」の中で、新自由主義という名前が残ったとしても、「本場」とは似ても似つかぬものになる可能性がある。それが日本の「伝統」だからだ。


というわけで、今の日本の「格差社会」について、これを何とかしようと思う場合、イデオロギーとして批判するよりも、具体的な改善を進言するほうが、現実的であり、上手くいくように思うし、それこそが保守的なやり方じゃなかろうかと思ったりするんだけど、まあ、何度も言うけど、知識不足なんで、軽く読み飛ばしてください。


ところで、保守と革新ということで言えば、俺は2001年頃からネットを始め、当時、新聞の社説を読み比べていたんだけど、新聞で保守系と言えば、読売・産経で、革新系と言えば、朝日・毎日というのが大方の見方であると思うんだけど、小泉構造改革についての論調は、俺の記憶するところでは、一番批判していたのは読売新聞であり、朝日新聞は小泉氏の外交政策等は大いに批判していたけど、経済政策については、曖昧な表現をしていたところもあるけれど、一番支持していたように思う。経済部と政治部・社会部では考え方に違いがあるのかもしれないけれど。記憶違いかもしれないので自信はないが。

最近ネットを見ていて、気になるけど放っておこうと思うパターン。

① ある記事がネット上に登場。
② 大反響。(同意する。批判する)
③ 反響に対するツッコミ(例:これって釣りでしょ。自作自演でしょ。書いてあることをちゃんと理解した上で反応しているのか等々)
④ 「素晴らしい洞察」等の賛辞や同意、信じてしまった、脊髄反射してしまった等の反省、あるいは脊髄反射した人達への相乗り批判等が登場。


⑤ ③のツッコミって本当に適切なツッコミだったのだろうかと俺の妖怪アンテナが反応するんだけど、調べたり記事にしたりするには膨大な労力が必要になりそうだし、そこまでするほど大事なことでもないので放置。