蕨の粉

(訂正あり10:10)


またまたまた本郷和人先生について。


大屋先生が本郷先生の『戦いの日本史』(角川選書)という本を批判されている。この本は去年の11月に発売されたそうで、図書館の本しか読まない俺はまだ読んでない。
武力と日常(6・完) - おおやにき

一つめは「蕨の粉」という話。中世に「武」の勢力が伸びていくことによって女性や老人のような弱者が圧倒されていったという、本郷氏のそれ自体はその通りだろうと思う指摘の文脈でこういう記述がある。

寡婦二人が蕨の粉を盗んだ。蕨の粉がどういうものかは分からないが、少なくともさほどうまいものとも、貴重なものとも思えない。働き手である夫を亡くした彼女たちは、小さな子どもを抱えてひもじさに堪えかねたのだろう。だが若者たちはこのことを知るや、寡婦の家に急行し、数人の子どももろとも、彼女らを撲殺してしまう。[1,136、強調引用者]

いやもちろん私は素人なので自信があるわけではないが、一般的に「蕨の粉」と言えばすぐに想起されるのはワラビの根を潰して水にさらして取ったデンプン、わらび粉のことではあるまいか。「わらびもち」の本来の材料であって、まあ砂糖と水を加えて加熱して練り上げるわけだが、大変に貴重な菓子であったともいう。その理由の一つはもちろん砂糖というのが貴重なものだったからだが、そもそもワラビの根に含まれているデンプンの量もたかが知れているのであって、クズよりも少ないので採取・製造に大変な手間がかかるとWikipediaにも書いてある。それでも無理やり取るからには貴重なものであるか救荒用の非常食かであって、まあ盗めば怒られるよなあという気が普通にする(殺すほどのことか、というのはさておいて)。

どちらの意見が正しいのかを検証するためには、何はともあれ原典を当たってみる必要があるだろう。というわけで、ネットに無いか検索してみるとすぐにヒットした。


小谷野先生の本が見つかった(ここ勘違い。本郷氏の書評だった。似てて当然)

 ところが中世はフィクションの介在する余地のない、身も蓋もない時代であった。1504年、和泉国日根野荘(大阪府泉佐野市)でひもじさに耐えかねた寡婦が少量の蕨の粉を盗み食べるという事件があった。蕨の粉はご馳走ではあるまい。何だそれくらいと私たちは思う。村人はどうしたか。大勢で寡婦の家に赴き、彼女と幼い子どもを容赦なく撲殺したのである(『政基公旅引付』)。

小谷野敦『日本売春史―遊行女婦からソープランドまで―』


上の本郷氏の本からの引用とほぼ同じであることは注目して良いだろう。「寡婦」「ひもじさに堪えかねた」「小さな子ども・幼い子ども」「撲殺」など非常に類似している。


ところで、これで出典が『政基公旅引付』であることがわかった。今度はこれをキーワードに検索してみる。するとまさにこの部分が現代語訳ではあるが載っているページがある。

史料② 『政基公旅引付』(1)文亀4(1504)年2月16日条
 16日雨。大木村と船淵村の番頭が来た。昨年の干ばつのため御百姓が多く餓死しています。そのため、蕨を採ってかろうじて命をつないでいましたが、これを盗む者がいて、食物が無くなってしまうと死んでしまうので、見張り番をおくことにしました。昨夜盗む者があったので、追いかけたところ、瀧宮神社(2)の巫女(3)の家に逃げ込みました。中に入ってみましたら、巫女の2人の息子が犯人でしたので、かばう母親と息子2人を殺害しました。ご報告します。(政基の感想)地下沙汰(4)だから仕方がない。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

「政基公旅引付」授業プリント(まっけんのホームページ「所宝惟賢」)


これを見ると、先のお二方の文から受ける印象とはかなり違ってくる。本郷先生は蕨の粉を「貴重なものとも思えない」というが、明らかに「貴重なもの」だ。無くなると飢え死にしてしまうのだから当然だ。


なお、
『政基公旅引付』 にみられる中世後期日根野の村落生活. と景観要素との関わりについて (注PDF)

文亀3年(1503)9月5日には、旱魃が続き稲の収穫が見込めないので村人は山に入って蕨を取り辛うじて飢えをしのいだとある。

とあり、これが大屋先生の推測通り「救荒用の非常食」であったことは別の箇所からも証明できるのであり、人殺しの言い逃れのためにありもしない飢餓を持ち出したという可能性もほとんど無い。


なお、本郷先生は寡婦二人が蕨の粉を盗んだ」「数人の子どももろとも、彼女らを撲殺してしまう」と書くが、犯人は「巫女の2人の息子」である。殺されたのは女性一人(母親=巫女)と男性二人(息子)である。殺害とはあるが撲殺されたとも書いてない。


一体どうしてこのような違いが出てきたのだろうか?


俺が見たのは現代語訳であって原典を見ていないから、そういう解釈ができるという可能性も一応ある。ただし、既に上に書いたように、本郷先生の書いたものは小谷野先生の書いたものと実にそっくりである。これは一体どうしたことだろうか?


学者たるもの、原典は当然調べたはずだと思いたいが…


(追記 12:03)
重ね重ねの訂正になるが、この部分『戦いの日本史』(角川選書)ではなくて、『武力による政治の誕生』(講談社)に書かれていることであった。訂正だらけでグダグダになってきたけれど、本質部分は変わらないのでご容赦を。


※ なお『武力による政治の誕生』によると、彼女らを殺したのは「若者」とあるが、なぜ若者だとわかるのか不明。また裁判抜きで殺されたように書いてあり、史料にも裁判について書いてないがだからといって裁判が無かったと言い切れるものなのかも不明。なお同年3月にあった事件は「嫌疑」であるのに対しこちらは現行犯である。また殺した場所について「家に急行し」と書いてその場で殺したかのように書いてあるがそれも史料を見て判断できるものか不明。また彼女等を村落の非構成員としているが、なぜそう言えるのかも不明。特に「若者」の部分はここでの本郷先生の主張の根幹をなすものだけに、その根拠が示されてないというのはどうかと思う。

いちいち原典に当たって確認する必要がある学者

俺が本郷先生について最初に書いた記事が「これ」そこに

本郷氏の書く一言一句が一々自分自身で原典に当って確認しないことには信用できない

と書いた。今もその考えは変わらないどころか、一層その思いが強くなっている。


もちろん究極的には誰が書いたものであろうが一次史料に当たる必要があるということはできるかもしれないけれど、そんなことは不可能だし、学者が書いたものであれば、原典に当たらずともまあ信用しても良いだろうと判断するところであるが、この人に限っては全く信用できないのである。