科学と疑似科学の断絶

オタクと学者 - 今日の雑談


俺の黒歴史ニセ科学問題で主に争点になっている自然科学ではないけれど)。


俺がネットを始めたきっかけは、日本史に興味があって、そんでネットで情報を集めたい、疑問を解消したいというのがあったんですね。で、その頃の俺の愛読書は井沢元彦の『逆説の日本史』だったりするわけです。といっても既にその時点では疑わしいところがいっぱいあるとは思っていたんですけどね、でも、どこがどうおかしいと具体的に指摘するほどの知識はない。


それにおかしいところがあるとはいっても、興味深い指摘をしていると思ってたし、氏は歴史学の素人なんだから、全てが正しいということはないだろう、それでもって全否定するのは間違ってる、それはそれとして、良いところをこそ注目すべきであると思ってたんですね(そういう井沢擁護の意見は今でもよくみかける)。


それに対して、日本史に詳しい人は井沢はトンデモだという。ところが何がトンデモなのか具体的な説明に乏しい。本人はわかっているのだろうけれど、こちらにはわからない。そもそもそう言ってる本人が正しい認識を持っているのかもわからない。学界が正しいから井沢は間違っているというのは権威主義的である。口汚く罵るなんて論外だ。井沢が正しいか間違ってるかはともかく、そんな批判は批判ではない。そう常々思ってました。


ネットをはじめてから、
納得できない『逆説の日本史』
というページを見つけて、やっと何がおかしいのかが理解できるようになり、その他自分で調べたりして『逆説の日本史』に書かれていることのほとんど全てが、到底認められるものではない、それも単に間違っているだけでなく、都合の悪い点を隠蔽しているとみられる点もあり、一気に冷めていったわけです。


で、俺は、疑似科学批判は「間違っているから間違っているんだ」式ではいけない、ちゃんと具体的に、それを信じている人の立場を考慮して批判しなければならない。それが「わかっている人」の責務だと思うわけです。ところが、実際はそういう批判は稀であったし、今でも稀である。一口に疑似科学といってもピンからキリまであるのに、学界で認められていないものは、全て疑似科学として全否定する。そういう風潮があるわけです。


その背景には学者は「そんなインチキ科学に関わっている暇があったら自分の研究に没頭せよ」という考え方があると思うんです。だから学者は大抵の場合そういうものを無視する。それが大勢であり、ごく一部の学者やアマチュアが主な批判者となるわけだけど、そこではレベルの低い疑似科学批判が横行しているということなんだろうと思います。


しかし、それではいけないという考える人もいて、積極的に巷に流布している疑似科学を「正しく」批判しようという動きが出てきた。これは従来の疑似科学批判を反省した上での動きであり、それは大変結構なことだと思っているわけです。


ところが、そうしてはじまった「新しい」疑似科学批判だったはずのものが、どうもうまいこといっていないような気がする(気がするというのは主にネットでの話であって地道な活動が成果をあげているのかもしれないけれど。あとこれが日本だけの現象か世界的なものなのかは知らない)。