理研の責任

「とかげの尻尾きり」だとか何だとか言われているけれど、何が悪いのかどうもよくわからない。


現代の科学は非常に細分化されていて、一握りの専門家しか理解するのが難しいものもある。他の研究者は「その研究者が悪意ある行為をしていないだろう」という性善説によって、提供されたデータ等を信用して自分の専門分野の研究をする。そういうようになっているんじゃないんだろうか?若山教授もそんな感じの発言をしていたし、テレビの解説者もそんなことを言っていた記憶がある。


もし捏造が発覚したとしたら研究者生命は終るからそんなことをする人は滅多にいないだろうという前提でも多くの場合は支障がない。だがそんなことをする研究者が全くいないというわけではない。


それを防ぐために確認作業に膨大なコストをかけるか、そういうことが起こりえるとしてもいずれ発覚するのだから「起きたら起きたで仕方ない」と考えるのかという話じゃあるまいか?後者を選択するのなら今後も同様の事件が起きることは避けられない。避けられないけれども、それで得られるものとの失われるものとの損得勘定を考えて選択するという考え方は十分ありえるだろう。ただそういう考え方を受け容れられない人がいることは間違いないだろう。


もちろん改善されるべきものは改善されなければならないという考えは「正論」だけれど、それを考える際にはコストとか、それで世界的な競争に勝てるのかといったことも考えなければならないだろう。と俺は思うんですけどね。


(追記)
俺の言ってることと正反対のこと書いてる人がいた。
STAP問題が照らし出した日本の医学生物学研究の構造的問題: 小野昌弘のブログ Masahiro Ono's blog
この人は本物の学者みたいだけれど…