熱田の楊貴妃伝説

733年の遣唐使の際に日本・新羅・唐・渤海の間に極めて重大な緊張関係のことについては前の記事で書いた。
井真成は留学生ではないかも


まさにこの時代。唐の皇帝玄宗は日本侵攻を計画していた。日本国存亡の危機である。日本の神々は一堂に会し策を練り一計を案じた。題して、「玄宗を美女でたぶらかし堕落させて日本侵略の野望を止めさせよう作戦」


そして工作員として選ばれたのが我等が熱田大明神である。熱田工作員は唐の宮廷への潜入に成功し、見事に玄宗皇帝のハートを鷲掴みにすることに成功した。そして目論見通り玄宗は腑抜けになり、日本侵略のことを忘れてしまったのであった。


熱田工作員の唐での通り名は、すでにお分かりだと思うが楊貴妃であった。


詳しくは、
楊貴妃 玄宗を尾張ことばでたぶらかし(氷心玉壷 古典を遊ぶ)
熱田神宮にまつわる伝承や逸話(白鳥絶賛計画)
熱田『蓬莱伝説』
あたりを参照のこと。



楊貴妃の霊魂が蓬莱(すなわち熱田)にいることは、白居易の「長恨歌」にも書いてあるのである。

昭陽殿裏恩愛絶 蓬〓宮中日月長・・・・・昭陽殿での恩愛も絶え、蓬莱宮の中で過ごした時間も長くなりました。

長恨歌 - Wikipedia


察するに、熱田大明神(楊貴妃)は、玄宗をたらしこむために派遣された工作員ではあったが、本気で敵である玄宗に恋してしまったのだろう。


万里集九(1428〜?)は熱田にある楊貴妃の墓を訪れた時の詩。

謹んで申し上げます。「もし楊貴妃に霊魂があるならば、どうか、お宮の戸を開き放って、試みに私の申す事を静かに聞いて頂きたい。玄宗皇帝とあなたとは、後の世々も、幾度生れ変わるとも当然、あのおしどりのように夫婦仲良く離れる事なく、生命を寄せるべきでしたのに、あの天宝時代、眠れる海棠と云われた、あなたは、なぜ安禄山の乱の折に、命を落してしまったのであろう。(痛ましいことです。)

(『梅花無尽蔵注釈』市木武雄 続群書類従完成会



で、これが信長と何の関係があるかというと、大いに関係があると思うのだ(俺だけかもしれないが)。

桶狭間合戦の勝因

織田信長今川義元を討ち取り今川軍を壊走させた桶狭間の合戦。信長の勝因について多くの研究者が論じていて、たくさんの説があり、決着が付いていないと言えるだろう。
桶狭間の戦い - Wikipedia


ところで、この時豪雨が降ったという話はとても有名。そのことが信長にとって有利になったというような説を聞いたことがあるはずだ。

1. 「迂回攻撃説」

 善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。

2. 「正面攻撃説」

 善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍、折からの豪雨で視界が効かないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。

いずれの説にせよ「豪雨」が重要なキーワードになっている。


それは、それでいいのだが別の視点も重要だと俺は思う。
桶狭間合戦に関しての根本史料は太田牛一の『信長公記』だ。そこに何と書かれているか。

山際迄御人数寄せられ候の処、俄に急雨石水を打つ様に、敵の輔に打付くる。身方は後の方に振りかゝる。沓懸の到下の松の木に、ニかい・三かゐの楠の木、雨に東へ降倒るゝ。余りの事に熱田大明神の神軍かと申候なり。

(『信長公記』奥野高広・岩沢愿彦校注 角川ソフィア文庫


ここで太田牛一が言いたいのは、この合戦が「熱田大明神の神軍」だということでしょう。


これはとても重要なことだと思う。俺は神話・伝説関係も大好きだから『信長公記』をはじめて読んだのは7年以上前のことだけど、最初から気になっていた。でもこれが一般に注目されているとは到底思えない。


今回検索してみたら、
勁草録 20091113
という記事で尾山晴紀さんという作家の方が注目されていた。

この沓掛の大木の記述の前後は、まさに戦いの記述ですが、この沓掛の大木・熱田大明神云々が妙に浮くんですよね。
これは信長公記版の白鷺ではないかと。
甫庵信長記で有名な、熱田神宮で白鷺が飛んだのを信長が吉兆とした場面(信長公記にはなし)のようなものではないかなと思うのです。また、甫庵信長記の雨中の奇襲でも「大雨頻に熱田の方より降り来り」とあります。
普通に戦ってはとても勝ち目がない戦いで、なんと敵の大将を倒してしまった。
現代の我々は奇襲ならアリと思うように、当時の人々は神の加護(熱田大明神)ならアリと思ったのではないでしょうか。
神風じゃありませんが、戦の最中の雨を神雨として思った太田牛一が、沓掛の大木の話をわざわざ戦いの記述の最中に入れたような気がします。
そう思うと、甫庵信長記の白鷺の場面や雨中の奇襲は、熱田大明神の神軍の言葉を膨らました結果に思えてくるんですよね。

鋭いと思う。


俺は甫庵信長記を読んだことがないので、「熱田神宮で白鷺が飛んだ」という話を知らなかったのだけれど、この「白鷺」は「ヤマトタケル」を連想させる。熱田には「白鳥」という地名がありヤマトタケル陵とされている古墳もある。


しかし、おそらくこれは尾山さんのおっしゃる通り、小瀬甫庵太田牛一の『信長公記』の記事を膨らませた結果でしょう。甫庵はそういうことをいかにもやりそうだ。ただし甫庵もまた「熱田大明神の神軍」だということに注目していたということでもある。『信長公記』を「読み物」として読めばそこに注目することは自然なことなのだ。歴史史料としての目的だけで読むと見逃すものは多いのだ。



さて問題は「熱田大明神の神軍」だ。熱田大明神が楊貴妃であることは前の記事で書いた。
⇒「熱田の楊貴妃伝説


熱田大明神(楊貴妃)は国難を救った神である。そのことを小瀬甫庵は気付かなかったかもしれない(だからヤマトタケルと混同したのではないか)が、信長は知っていただろう。


「熱田大明神は神風を吹かして信長に味方した」。これが太田牛一の言いたかったことだろうし、実際、それは織田軍の士気を高めたことだろう。


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ところで京都の泉涌寺楊貴妃観音堂がある。

楊貴妃観音堂−大門を入ってすぐ左手の奥まったところに建つ。中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置する。

泉涌寺 - Wikipedia


田中貴子先生も紹介している。

 泉涌寺にある「楊貴妃観音」は、かつては百年に一度開扉された秘仏で、十三世紀に当寺の僧侶によって宋からもたらされたという。観音は変身して衆生を救う菩薩(ぼさつ)だが、楊貴妃観音というのはその中に含まれず、きわめて珍しい通称である。江戸時代の諸地誌には、唐の玄宗皇帝が亡き楊貴妃の姿をしのんで作らせたという伝説が記されるので、この通称が広まったのはこのころである。楊貴妃はいわゆる「三美人」の筆頭でもあり、美人祈願が生まれたのは当然のようだが、強大な力を誇る帝に愛されるという「良縁」が美貌(びぼう)のせいだとしたら、やはりここでも良縁祈願の方が先だったことが推測される。

京都新聞|田中貴子の洛中洛外なぞ解き紀行


この楊貴妃観音堂を建立したのは誰あろう織田信長なのであった。
泰巖宗安記 楊貴妃観音



このように織田信長と熱田大明神(楊貴妃)には深い関わりがあるのである。


しかも、俺の考えでは、もっと深い関わりがあるんじゃないかとも思うのである。それについてはまた後で。