内部留保の活用(その2))

まだこの話が続いているようなので。
内部留保の活用 - 国家鮟鱇のつづき


(なお俺の書くものはバブル時代頃に仕入れたおぼろげなものが土台となっている。間違ってたら指摘してほしい))


そもそも内部留保は誰のものかといえば株主のものである。これは別に株主の味方をして言っているのではなくて、内部留保は、配当として分配することが可能なものをあえて社内に保留しているものだからである。なぜ配当として分配しないのかといえば、基本的には「その方が株主(投資家)にとって利益があるから」ということになる。


たとえば急成長している会社なら、配当金として分配するよりも、その金を設備投資に投入した方がさらなる利益を見込むことができる。だから無配でも株主は文句を言わない。しかし設備投資もしないのに内部に溜め込んでいるだけならば株主に分配するべきである。これも別に株主のためだけのものではない。使い道のない金を企業が株や債券等で運用するだけなら、その金を株主(投資家)に分配して投資家自身が自身の判断で資金を必要としている企業に投資した方がよほど経済全体にとっても良いはずだ。


内部留保はこのような性格のものだから「賃上げ」に使うというのは筋違いであるし、前にも書いたけど具体的にどうすれば強制的に実行できるのかも皆目わからない。


もっとも内部留保を潤沢に溜め込めるほどの余裕ある企業ならば、賃上げすることが可能だろうという意味ならば別におかしなことを言っているわけではないが、その場合は「内部留保の活用」とは言うのはどう考えたって変だ。そもそもこんな話が真面目に議論されてるのがおかしいとさえ感じる。


一方、「内部留保で賃上げ」ではなくて「内部留保で雇用を増やす」ならば話は違ってくる。内部留保を使って新規事業を立ち上げるとかすれば当然雇用は増えるだろうから、こっちは全然おかしな話ではない。とはいえ営利企業なんだからやみくもに事業を拡大することはできない。また儲かる見込みがあるのなら別に政府がとやかく言わなくたって勝手にやるだろう。結局のところ政府にできることは規制緩和等で新規事業をやりやすい環境を作るとかであって「設備投資を積極的にやれ」とかいった精神論を言っても大した効果はないのではあるまいか。



(なお前にも書いたけれど、大企業が儲かってるから大企業の社員の給料を上げるという考えは左翼的にどうなんだという疑問があるのだが、これはまた後に)

内部留保の活用と同一労働同一賃金

「大企業が儲かってるから大企業の社員の給料を上げるという考えは左翼的にどうなんだ」という件について。


左翼は内部留保の活用で賃上げを主張する。一方、俺の認識するところでは、左翼は同一労働同一賃金も主張しているはずだ。両者は両立するのだろうか?


儲かっている大企業の社員は内部留保を活用して賃金が上がる。しかし経営の苦しい中小企業の社員の賃金は上がらない。つまり同じ内容の仕事をやっていても当然格差が生じる(今でもあるけど)。これはどう考えたって同一労働同一賃金とは真逆の話だろう。この矛盾が矛盾と認識されていないのは、日本において「同一労働同一賃金」とは正社員と非正規社員の格差を解消するという話になっているからだと思われ。さらに日本では企業別労働組合が主流だからだと思われ。


しかし平等を追求する左翼であれば、同一企業内における雇用形態による賃金格差だけではなく、企業間における賃金格差を縮小・解消する方向を目指すべきではないのだろうか?ウィキペディアの「同一労働同一賃金」の記事では「北欧諸国の連帯的賃金政策」についての説明もされている(レーン=メイドナー・モデル)。
同一労働同一賃金 - Wikipedia


まあ、俺は左翼ではないので左翼の気持ちを十分理解しているわけじゃないんだけど。

日本人は有色人種

かっての日本人は人種やら国籍に対する意識が薄めだったのかも:山下泰平のブロマガ - ブロマガ
俺は近現代史得意じゃないけど、非常に違和感のある記事。


素人の俺の理解するところによれば、日本人(特に国学系の人)は、日本人を精神的に優秀な民族だと考えていた。しかしあくまで「精神的」なものであって、文化については古来中国から輸入していた。和魂漢才。


で、幕末になって西洋列強がやってきて日本に開国を迫り不平等条約を締結させられた。日本人は精神的には世界で一番優れているけれども、それだけでは西洋の圧倒的な力に抵抗できない。そして今年の大河でやるかもしれないけれど、高杉晋作は上海でかつて日本に文化を伝えた中国の人々が虫けらのように扱われているのを見た。米国に留学した人々は奴隷制度を目の当たりにした。


その惨状を見て日本人は、西洋の文化を取り入れて国力をつけ、また非文明国として見下されないようにつとめ、それに成功した。その一方で、アジア・アフリカの人々と連帯し、西洋列強に対抗しようとも考えた。日本は「有色人種」のリーダーたらんとしていた。


なお「国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である」
人種的差別撤廃提案 - Wikipedia(1919年)
したがって

万歳に勢いがあるため理屈はともかくなるほどッ!!と納得してしまうんだけど、この小説が書かれたのは一九一〇年代のことだ。西洋でも人権意識が向上しつつある時代で、それが日本に輸入されて発生した小説だろうと言われてしまうと反論することができない。

というのは無知によるものであろう。アメリカで日本人移民への排斥活動が活発だった時期でもある。
排日移民法 - Wikipedia
この記事で紹介されている小説もそういう背景があるものと考えられ、「日本人は人種やら国籍に対する意識が薄めだった」どころの話ではない。


で、この考えが後に八紘一宇とか五族協和とか大東亜共栄顕にも繋がっていくし、欧米列強の植民地支配からの解放(という名目)にも繋がっていくことにもなるのであった。