論理2

 再び大西氏のブログを訪問したところ、

めずらしくコメントに書きます。サンタナさんやNNSさんがどう感じるかということと、国民的合意が得られるはずもない発言を公人がするのとは根本的に違います。

 という大西氏のコメントがありました。「国民的合意が得られるはずもない発言」というのは、それはそうであろうと思います。もちろんこの発言が「国民的合意」を得られるとは思えません。
 ただし「国民が中心の国」というのも「国民的合意が得られ」ているわけではありません。少なくとも俺は同意していません。だからといって否定しているわけでもありません。基本的に「何が日本の中心か」など関心がないですし、関心を持たなければならないとも思わないからです。
 これが「日本は天皇中心の国」ということを新憲法に盛り込むとかであれば話は別ですが、そうでなければどうでもいいことです。もちろん人によっては、支持・不支持があって「武部幹事長はけしからん」なんて思う人もいるでしょうけど、それは意見と意見の対立であって、日常茶飯事にあることであれば、発言すること自体に問題があるとは思えません。ただし、それが自民党幹事長としてふさわしい発言であるかは、また別の問題ですし、俺がそれに関心がないことは前に書きました。
 ところで、大西氏は「私人」という立場でしょうから、「国民が中心の国」と思うのが自由なのはもちろん、発言することも自由なのだということになるのでしょうけど、しかし、武部幹事長の思想と自分の思想を比較するのであれば、そこに一貫性がなければなかろうかと思います。しかし、そうなっていないということは既に指摘した通りです。
 そうなっていないのは何故かというと、大西氏は「国民が中心の国」というのが絶対的な「事実」であると確信しているからだと思われます。しかし実際はそうではありません。
 これも既に書きましたが「中心」などという概念は憲法に無いのであり、「中心」であるのか、無いのかという問題は、「主権は国民にあるのか」などという問題と違って、「国民」として関心のある、あるいはあるべき問題ではないと思います。
 もちろんそういう問題に関心のある人は、大いに議論すれば良かろうと思います。群馬県渋川市民と議論すれば大いに盛り上がることでしょう。
http://bogusnews.seesaa.net/article/10268242.html(要リテラシー。念のため)
 兵庫県西脇市も黙ってはいないかもしれません。
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091110873368.html

 あるいは「天皇が日本の中心でないのであれば、一体どこに位置するのか?中心から何度ずれているのか?」など興味深い議論が繰り広げられるかもしれませんので、その時は俺も参加するかもしれません。


 「国民が中心の国」などという、「国民的合意」が得られていないものを「当然のこと」だと思い込み、そしてそれに疑問を感じないというのは、少し危うい考え方だと思うので、書いてみました。