『もののけ姫』を見終わって

再び、山本ひろ子氏の『もののけ姫』批判について考える。
http://www.wako.ac.jp/~hiroko/professor_5b.html


山本氏はこの作品は呪術性が排除されているという。

誰もが「近代人」なのだ。

果たしてそうだろうか?それこそが近代的な価値観による幻想ではなかろうか?


そもそもこの作品は事実を忠実に反映したものではない(学問ではない)。
そのことを念頭に置いた上で、『もののけ姫』における「呪術」を考えてみる。


実はこの作品には二種類の「呪術」が登場する。


一つは主人公の「もののけ姫(サン)」である。彼女は人間の娘である。なぜ人間の娘が、山犬の娘として生きているのか?
映画では明確に説明していなかったと思われるが、恐らく「山の神」への捧げ物とされたのであろう。しかし、実はそれはただの「迷信」であった。山の神は人間の娘など欲していなかったのだ。サンを生贄として捧げたのは誰であったのだろうか?それはおそらく、山に畏怖の念を抱いてはいるが、直接の接点のない平地の民であろう。


一方、製鉄のために、山の木を切り倒している「タタラ」の民にとって、山は現実の存在である。彼らは、現実に山の神である「山犬」や「猪」と死闘を繰り返し、現実に犠牲者も出している。この闘いこそが、「呪術」であろう。もちろん現実の世界では、「タタラ師」は呪術を信仰している。なぜなら、現実世界にはそのような存在は想像できても、目には見えないし、触れることもできないからである。だが、物語世界では、質量を持って存在しているのだ。そのような世界で「祈祷」をしても、それは非現実的である。であるからして、物語世界の「タタラ師」は、宗教の力に頼らずして、実際に闘っているのである。


そのことを念頭に入れて、本来の「呪術」ということを考えるなら、それは「超自然」を人間がコントロールするための「技術」である。まあ、現実に中世の人間がどれほど本気で信じていたのかは怪しいが、元々は本気のものであったろう。それを、ただの「儀式」(前者のケース)のように考えてしまうと、呪術が排除されていると感じてしまうのではなかろうか?