意図的に翻訳しなかった?

本当はわざわざ言うまでもないことながら、余計な詮索をされないよう、あらかじめ最初に書いておくけど、俺は物事を考えるときには中立的な観点から事実を見極め、その上で、自分の立場で評価する。初めから先入観を持っていると目が曇るからだ。俺の立場は「中道」ではないが、だからといって、見方が分かれる事象の都合の良い見方だけを贔屓することはない。そんなことをすれば結局破綻するからだ。


ここに一つの大きな問題がある。「テレビ局の都合によって試合時間が変更された」という問題だ。これはほぼ間違いのない事実だ。
ここに一つの大きな論点がある。視聴者が見やすい時間帯に試合時間を変更することは悪なのかという問題だ。
ネット上では「悪」だという意見が圧倒的に多い。しかし視聴者があってのスポーツだという意見だって成り立つ。まず、このことを指摘しておきたい。ここでそのことを論じるつもりはないが、「悪であるのだから、隠す意図があったのだろう」という先入観を持ってしまうと、以下のことを冷静に考えることができなくなってしまう。


日本語通訳は訳していた
すでに何度か書いたことだが、日本語通訳は、

残念ながら、やはりこれは、テレビ局の制限もあり、この時間にやらざるをえなかった。で、やはり日本のスタイルというのも、やはりこの暑さの中では100%出せない。これはしょうがないことだ。

とはっきり言っていた。にもかかわらず、神保哲生氏は、

ワールドカップクロアチア戦の直後の共同インタビューでジーコが、「2試合連続で炎天下での試合になったのは、日本にとっては厳しい条件となった。しか し、テレビがそれを望んでいる以上仕方がない。」と語っていましたが、なぜか日本の通訳(テレビ朝日)はその部分だけ訳しませんでした。

http://www.jimbo.tv/commentary/000272.php
と書いている。


「テレビ局の制限」とはっきり言っているではないか?そして、俺はテレビを見ていて、どういう意味であるのかはっきり理解できた。これが訳さなかったとはどういう意味だろうか?俺にはただの勘違いであるようにしか思えない。
「テレビ局の制限」ではなく「テレビがそれを望んでいる」と訳すべきという意味であろうか?どう違うのかよくわからないが、ある言語を別の言語に翻訳する場合、人により言語により違ってくるのは当然だろう。語学の翻訳テストで出題者の翻訳と一字一句違っていたら点が貰えないなんてことは有り得ない。それに「テレビ局の制限」の方が「テレビがそれを望んでいる」よりテレビ局にとって厳しい言い方なのではないだろうかとさえ思える。さっぱりわからない。
当り前すぎて言うまでもないことだが、一応念のために書いておくと、ジーコポルトガル語で話したのだ。英語の通訳が正確で、日本語の通訳がおかしいなどという判断は、ポルトガル語を理解していなければできないことだ。なんで当然のように英語の通訳を支持するのだろう?


意図的に翻訳しなかったのか?
ネット上には「意図的に翻訳しなかった」という趣旨の批判がいっぱいある。神保氏の記事の影響であろう。しかし何度でも言うが、「テレビ局の制限」とはっきり訳していた。その事実を認めるべきだ。
万一、「テレビ局の制限」では意味が不明だ。もっとはっきり訳すべきだったという意味だとして考えてみる。そもそも、「テレビ局の制限」で意味は通じると思うが、それが不満だとしても、それならそうとはっきりと書くべきだ。あの記事を普通に読んだだけでは、全く何も訳さなかったという意味に受け取れる。その時点でおかしい。(まあ、そうではなく単なる勘違いだと俺は思うけど)。


次に、神保氏の単なる勘違いであれば、「アドリブでそんな判断をする」というのは一応筋が通っている。神保氏は、通訳が全く訳さなかったので、「アドリブでそんな判断を」したと思ったのだろう。もちろん、通訳はちゃんと訳しているので前提が間違っているのだが。
しかし、「テレビがそれを望んでいる」と言うべきところを「テレビ局の制限」と言い換えたのが通訳の判断だという意味だとしたら、そりゃおかしい。そもそも通訳が同じ訳になるとは限らない。一方が、英語で「テレビがそれを望んでいる」と訳し、一方が日本語で「テレビ局の制限」と訳したというだけのことではないか。しかも同時通訳であって、咄嗟の判断で翻訳しなければならないのだから、意図的でなくても、この程度の違いは日常茶飯事にあるだろう。安易に決め付けることができるものではない。


以上のことから考えて、神保氏の記事は、勘違いしている場合は間違っている。翻訳が適切でないという意味の場合は説明不足。
どちらにしても読者に誤った判断を与える危険性があり、実際そうなっている。
そして、間違いを認める、あるいは説明不足を認めたとしても、「テレビ局の都合によって試合時間が変更された」という大きな問題を論じるのに何も支障はない。むしろ、誤った情報は、正確な情報による批判を貶める結果に繋がる危険がある。


「無能な味方は、有能な敵よりもやっかいである」


自分と意見が似ている者には擁護したくなるのが人情で、逆に自分に敵対する者の不利な情報は、怪しげな情報でも信じてしまいたくなるのが人情だが、それが結局自分の首を絞めることになるのだ。