この疑問については、俺は前に書いている。
⇒ウヨクはシミンのなれの果てなのか?
戦後日本は「保守」政党が政権を握っていた。「保守」が革新である社会主義的手法を取り入れたというべきである。社会主義のイデオロギーを受け入れたわけではない。道具としての手法を取り入れただけだ。「保守」は保守のために役立つのなら、何でも受け入れる。役に立たなくなったと思えば未練はない。別の道具を手に入れるだけだ。
「革新」はそうはいかない。絶対的な理念があり、そこから具体的な方法が考え出される。従って、それがうまくいかないからといって軽々と変更することはできない。下手をすれば彼らの信奉するイデオロギーが崩壊してしまうからだ。そこで悪いのはイデオロギーではなく、それを運用する人間に問題があるのだということになり、粛清なんてことが行なわれたりすることもある。今でも「共産主義が悪いのではない。ソ連のやり方が間違っていたのだ」なんて考えている人もいるかもしれない。
そういう意味で言えば、保守は革新的であり、革新は保守的なのだが、政治的な「保守・革新」とはそういう意味ではないので、誤解してはいけない。
ところで、ドラッカー先生の本を買ったことをこの前書いた。
⇒はじめて読むドラッカー
そこにはこう書かれている。
地方に基盤を置くアメリカの政党は、その綱領も地方間の妥協たらざるをえず、白黒のはっきりしたプログラムにコミットすることができない。反面、反イデオロギーであるがゆえに、過激なものを含め、ほとんどあらゆる政治信条を受け入れる余地がある。その結果、政党の枠外において、過激な政治運動を起こす必要はないし、事実上ほとんど不可能になっている。しかもイデオロギーから自由であるがゆえに、いかなる政策であっても必要とあれば、いつでも取り入れる用意があり、事実取り入れている。当然、政治の急激な変化は未然に防がれ、あるいは少なくとも緩和される。人気のある政策は、およそ何でも取り入れる。
これはアメリカの話だけど、そっくり自民党にあてはめてみても、そう違和感はない。
俺の思いつきだけではちと不安だが、ドラッカー先生もこう言っていると知って、少しは自信がついた。