疑惑の判定

亀田興毅の世界戦ついては、そもそもいつやるのかも知らなかった、というか、もう世界戦なのかって驚いたくらい無知。たまたまチャンネル変えたら、丁度最終ラウンドだった。それまでの状況がわからなかったけれど、雰囲気からすると、やや不利なようだ。で、判定ということになったんだけど、これも実況の雰囲気からするとチャンピオンが優勢なようだ。しかし、ボクシングの判定はホームが圧倒的に有利だということは知っている。だから、亀田勝利もあり得るのではないかと思っていた。だから、亀田が新チャンピオンになったというアナウンスがあったときも、別に驚かなかった(もちろん試合を見ていない、場の雰囲気での判断)。
ただ、これで荒れるだろうなと思って、2ちゃんねるを覗いてみると案の定、祭り状態。


で、思うに、試合の結果がどうなるかなんて、たくさんのパターンがあるわけじゃない。判定に持ち込まれて、不利に見えるのに勝つというのは、俺でも可能性の一つとして考えられるくらいだから、関係者にとって想定の範囲内だったろう。さらに、それに対する疑問の声があがるということでさえ予想することは容易い。そして、それは関係者にとって無視できることだというわけでもない。


それにも関わらず、そうなってしまうというところが、この問題の最大の問題点なのではないか?これが例の「多元的無知」というものなのではないのか?


傍観者効果(ウィキペディア)

多元的無知 - 他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考える


この問題に関しては、「日本はだめになってしまった」的な、昔はそうではなかったという意見が多数見られるけど、むしろ、旧来のやり方を改めることができなかったと言うべきだろう。はてなブックマーク人気エントリー


亀田、今夏世界王者へ!(もちろん八百長)(TAKUの日記)


を読めばわかるが、今回が初めてというわけではない。俺がボクシングに興味をなくしたのもその頃のことだ。
しかし、あの頃と時代は変わった。一般常識を持っていればそれに気付かないはずがない。多くの関係者が気付いていて、今日の事態を予想できたのに、誰もそれを言い出せず、誰も言わないから、たいしたことじゃないと思って、ここまできてしまったのではないだろうか?