Wikipediaと集団知

「みんなの意見」?
の続き。


池田信夫氏のWikipediaについての言及に違和感を持ったところから、「集団の知恵」というものを考えていたんだけど、今は別件でもそれについて盛り上がっているようだ。


で、俺はIT音痴なんで、こういうことに口出しして恥をかくのも嫌なんだけど、ド素人として基礎知識のないまま「集団の知恵」とか『「みんなの意見」は案外正しい』とか聞いて連想するのは、「多数派の意見」とか、「みんなで話し合いをして出てきた結論」は正しい(ことが多い)というような感じなんだけど、そう受け取ってよいのだろうか?で、「多数派の意見」が正しいとは限らないとか、「衆愚」だとか、そういった批判があると。


で、そういう議論はともかく、具体的にWikipediaを「集団知」といった場合、それがどういう意味で「集団知」とされているのかがピンとこない。


(その1)
まず、前に書いたように、我々がWikipediaで見る記事は、複数の人間が関与しているとはいえ、それは最後に編集した人が付け加えた、あるいは削除しなかったものを見ているのであって、それを上のような意味で「集団知」と呼ぶことには抵抗がある。


「天動説と地動説」で例えれば、天動説を100人のうち99人が支持していて、ガリレオ一人だけが地動説を唱えているとき、「地球の周りを天体が回っている」とあった記事を、ガリレオが、「地球の周りを天体が回っているのではなく、地球が回っている」と書き加え、それを「集団知」とするのは、どう考えても不適当だ。


(その2)
さて、ガリレオが書き換えた記事は、それを支持しない人によって再び書き換えられるだろう。天動説支持者が圧倒的に多数なのであるから、ガリレオが何回書き換えたとしても、即座に元に戻されてしまうだろうと想像できる。ということは、その記事を見た場合、天動説を支持する記事を見る確率の方が高いだろう。


現在では「地動説」が正しいことになっているが、当時は「天動説」が正しいとされていたのだから、これでもって「集合知が間違っている場合もある」というのは不適当だ。新しい理論の提唱者が古い理論の支持者による抵抗に遭うのは当然のことだ。簡単に「新奇な説」が受け入れられる方がよほど危険なことだ。新しい理論の提唱者には説明責任がある。このような場合、むしろ、集合知が上手く機能したとするべきだ。


(その3)
だが、実際にはWikipediaの編集に関与している人は多数ではない。全体を見れば少なからざる人が参加しているかもしれないが、一つの項目で見れば、それほど多数というわけではない。大多数は「見てるだけ」だ。俺もかなりWikipediaを利用しているが、今まで一度も編集したことはないし、今後するつもりもない。池田氏のブログで取り上げられた「平野啓一郎」の項目についても、「履歴」を見れば、リンクを挿入するなどの細かい編集を除けば、それほど頻繁に編集されているわけではない。編集に参加した少数者と参加していない多数が存在する。参加していない者は「黙認」していたわけではないだろう。最初から参加する意志がなかった者がほとんどだろう。不適当な記述を見つけたからって修正しなければならない義務などない。


Wikipediaは「集合知」と呼べる場合があるかもしれないが、「多数知」ではない。従ってWikipediaを民主主義に例える見方もあるようだが、むしろ、「編集参加階級」と「ROM専門階級」の二階級があり、「編集参加階級」の集合知によって作られるという点で、民主主義よりも、むしろ「選民思想」に近いのではなかろうか?