「文化」としての農(その2)

農家切り捨て論のウソ 小手先の保護政策が日本の農業を“自壊”に導く (ニュースを斬る):NBonline(日経ビジネス オンライン)


ここに書かれていることの大半は、既に80年代に言われてきたこと(それ以前から言われていただろうけど俺はガキだったので詳しくない)。


80年代といえば、地価高騰。サラリーマンは「ウサギ小屋」に暮らし、郊外から都心まで長距離を満員電車に揺られて、早朝から深夜まで、「働きアリ」のように働き、住宅ローンの返済等々で出費はかさみ、お父さんの小遣いは雀の涙。たまに家族で出かければ、宿泊費や食費でぼったくられるという具合。一方、地価高騰で社会問題になったのが「地上げ」。「先祖代々」の土地が取り上げられると、マスコミは農家や零細商店主へ同情し、大企業を批判する。


まあ、実際には各種規制等があって、なかなかそう上手くいくというわけでもないのだろうけれど、やる気になれば、法を整備して、できないという話ではないだろう。しかし大手マスコミは、そういう零細農家を守ろうとするかのような論調が主流。それでいて、サラリーマン層の住宅難についても問題視する。悪の根源は地上げ業者や大企業ということにして、「弱者」であるサラリーマンと零細農家は対立する存在ではなく、連帯すべき存在であるかのように見ている。


そういう風潮に釈然としない思いを抱いていたのだが、そこに登場したのが大前研一。『新・国富論』がベストセラーになったが、そこで展開された、戦後の農業保護政策の弊害についての主張を読んで大いに納得したものだ(古い話なんで正確に何と書いてあったのか覚えていないけど)。それと、もう一つが80年代の雑誌『諸君』。こちらも日米貿易摩擦問題に絡んで、日本の農業保護政策の問題点について大きく論じていた(現在の『諸君』は読んでいないので良く知らないけれど、こういう問題はあまり扱っていないのだろう。扱っても当時の論調とはだいぶ違ったものになるかも)。ブログ界で農家を敵視していることで有名な散人先生の主張は、当時のこれらの主張を大いに反映していると思われる。


で、俺は今でも、これらの農業保護政策批判にうなずける部分が多々あるんだけど、今はちょっと違った考えも持っている。それはまた後で。



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