空気を誤読する社会

去年の流行語は「KY(空気読めない)」だった。それにちなんで「空気の誤読」についてちょっと書いてみようと思う。


まず、「世の中が右傾化している」という勘違い。去年こんなことを書いた。
「右傾化」って一体どんな現象なんだろう?(その2)


「右傾化」とは、旧来の左翼の考えと異なる考え方が増えたということにすぎない。「右傾化」と呼ばれる考えの多くも、実は「平等」を追求したものであり、「格差容認」と「平等志向」の対立ではなく、「平等志向」と「平等志向」の対立。


ところで、実際のところ、日本国民の多くは、一部を除いて、ある程度の格差には寛容であり、そういう意味で、日本国民は元々「保守」。


近年、財政危機が切羽詰った問題となり、余裕が持てなくなってきた。それは自らの生活に深刻な影響を及ぼす。そこで、財政の厳正な運用を求めることになり、「弱者」適用の基準も厳しくなってきた。「老人」だとか「地方」というだけで、「弱者」として救済されることは、もはや許されない。だが、それによって、「本当の弱者」までもが、切捨てられる事態も生じている。しかしながら、それは多くの日本国民の望むところではない。「本当の弱者」は救われるべきだと考えている。国民の望みは弱者を切り捨てることでも、弱者の範囲を広げることでもなく、「本当の弱者」だけを救済すること。と、口で言うのは容易いが、実際の運用は難しい。難しいが、そこを何とかしなければならない。


弱者の定義を厳密にするべきだという考えが「右傾化」の正体。財政だけでなく、「雇用」等についても同じ。要するに余裕がなくなっているのだ。余裕を取り戻すことは、世界規模の話であって、おそらく無理。


で、話は元に戻って「平等志向」と「平等志向」の対立。これ自体は、左翼的イデオロギー内の対立だけど、それを支持している人達が「左翼」なのかというと、必ずしもそうではない。上に書いたように、日本国民の大多数は「保守」なのだ。最近になってそうなったのではない。昔からそうなのだ。だから、それをもって「右傾化」とはいえない。しかし、その「保守」の人達が何かを主張しようとするとき、その主張は「左翼」的色彩を帯びてしまう。そして、その主張が、旧来の「左翼」とは異なる「左翼」的主張である時、それを「右傾化」と呼ぶ。


実際のところは、そういう発言をしたからといって、イデオロギーと呼べるようなものに基づいているのではない。自分たちの生活が脅かされているという危機感から発せられたものであり、「余裕」のあった時には、旧来の「左翼」の主張にも共感できたが、今はできないというだけのこと。


イデオロギーで支持されたものではないから、その理想が完全に実現できなくても、ある程度目標が達成されれば、そこで熱はさめる。それ以上徹底的にやろうとすると、さっきまで味方していたものが敵になる。どこがその境目になるかは、そのときの状況次第。イデオロギーで支持したわけではない人をイデオロギーで支持した人であるかのように批判するのは「空気」が読めていないので反感を買うだけ。逆に自分達のイデオロギーの「正しさ」が支持されたと考えて調子に乗るのも「空気」が読めていない。


で、言論界は「空気」が読めていない人同士の空虚な議論が続く。