トンデモオーラ

俺は物理学や経済学などに全くのド素人なんだけど、そういう無知な分野であっても、「直感」でこれってトンデモっぽいなあと思うことがある。


もちろん、俺は無知だから、それに対して論理的な反論などできるわけがない。「トンデモっぽいと俺が感じたからトンデモなのだ」なんていうのは、それ自体が非論理的なトンデモだ。しかし、大抵の場合、その「直感」は間違っていないと思っている。実際、後になって「専門家」から論理的な批判が出てくることも多い。


大体「トンデモ」は、どの分野であっても、共通の雰囲気を備えている。それを文字にするのは難しいが、独特な言い回しだとか、ソースの恣意的な利用だとか、あまりにも都合が良すぎるとか、そういった諸々の特色があって、それだけではそれを「トンデモ」だと言い切ることはできないとはいえ、それらが総合されて発せられる「オーラ」が、これがトンデモだというメッセージを俺に伝えてくるのだ。


この「オーラ」を感知する能力は、「知識」によって取得するというより、「経験」によって取得するものだ。今まで見てきた多数の「トンデモ」が持っていた独特の雰囲気を体で覚えて危機を察知する。「理性的」というよりも「動物的」なものだ。


もちろん、こんなやり方は判断を誤ることがある。そしてトンデモでないものをトンデモと認定したり、トンデモであっても、その中のトンデモでない部分にトンデモオーラを感じてしまったりすると、その「経験」がインプットされてしまい、後の判断にも影響してしまう。だから「技」の鍛錬を怠っていると、自分がトンデモになってしまう。


そして、これは「非論理的」なものなので、自分がトンデモに騙されないためには役立つが、トンデモを批判する役には立たない。せいぜい、「自分は同意できない」とか、「何か違うと思う」という意見表明ができるだけだ。そして、相手が「何がおかしいのか説明せよ」と迫ってきたら、沈黙することしかできない。下手に「論理的」なことを言って失敗したら、むしろ相手の「正しさ」を手助けしてしまう。


しかし、ただ黙っていれば良いかというと、そういうわけでもない。よく「皆がおかしいと思っていたにもかかわらず誰も言い出さなかった」というケースを「空気」のせいにする主張を良く見るが、そうではなく、「おかしいとは思うが具体的な反論が見つからない。下手に反論しても相手の方が討論では一枚上手だ」というケースだって少なからずあるはずだ。自由主義国家が政治を官僚任せにせず、国民の審判を仰いだ政治家による国会を必要とするのは、単に選挙がないと「私利私欲」や「不正」がはびこるからという理由ではなく、「論理」で武装した有能な官僚に、「非論理」の国民が異を唱える手段としても機能しているのだろうと思う。