はだかの王様

ネットの経済論壇で熱い議論が交わされているけれど、それとは関係ない(少しは関係するかもしれない)話。


松尾匡『「はだかの王様」の経済学』を読む。 - 日々一考(ver2.0)

はだかの王様」の帰結に即して言えば、「はだかの王様」と皆が思っていたにも関わらず「透明な服を着た王様」だという嘘が成立していた世界が、子供の一言によって各人の間の情報交流が図られ、結果「疎外」が解消されて皆が「はだかの王様」と言うようになったわけである。


『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である

 本書の題名になっている「はだかの王さま」というのは、みんな実は内心「王さまははだかだ」と思っているのに、お互いの顔色をうかがううちに、だれもそれをきちんと表現できないという状態を指している。そして表現できないために、「お互いの顔色」というどこにも実体のないものが、人々の行動を制限し、抑圧して、だれも自分の本来の状態を実現できなくなってしまう。それが疎外だ。松尾がいいたいのは、経済の多くもそういう面があるということだ。


ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen 大久保ゆう訳 はだかの王さま The Emperor's New Suit

 だれも自分が見えないと言うことを気づかれないようにしていました。自分は今の仕事にふさわしくないだとか、バカだとかいうことを知られたくなかったのです。ですから、今までこれほどひょうばんのいい服はありませんでした。


王様を含む全員には服が「見えなかった」。だが、「はだかの王様」と皆が「思っていた」のかというと、そうではない。


読者は「服」を作ったのが「さぎ師」であることを知っているので悩むことはない。しかし、登場人物達はそのことを知らない。「バカには見えない服」など存在しないということがわかっていれば、「見えない」=「王様は裸」ということになる。だけど「バカには見えない服」が実在するかもしれない世界では「王様は裸」である可能性もあるけれど、「見えない自分がバカ」である可能性もある。


そういう状況で、「王様は裸だ」と断言できる人というのは、服が実在しないことを立証することのできる人間か、自分の見て感じたことが「正しい」と何の疑いも持たずに断言できる人間。一般に望ましいとされるのは前者であり、後者には、「水伝」を自分が正しいと思うから正しいと言ってしまうような人も含まれる。


それ以外の人にとっては、「王様は裸」なのか、「自分がバカ」なのか、本当のことがわからない状況。そのような状況の中で人々が取った行動は、服が見えているように装うこと。服が本物であった場合、自分がバカであることが他人に知られてしまうということを最も恐れた結果。この場合、服がニセモノであった場合には、「嘘をついていた」ということが露見するリスクがあるが、「バカ」と「嘘つき」は同義ではない。人々は「嘘つき」と思われることよりも「バカ」と思われることを恐れた。


なお、王様が裸であるか、そうでないかということ自体は、人々にとってはどうでも良いこと。王様が裸だと景気が悪化するとか、そういう問題があるわけではない。あくまで他人に自分がどう見られるかということが重要関心事。そして、人々がこのように振舞うことは、「服が見えないのは自分だけで、自分だけがバカなのではないか」という不安を除けば、誰も損をしない。


ところが、そこで子供が「王様は裸だ」と叫んでしまった。子供はそうした社会的関係から「無縁」の存在(ちなみに元の伝承では「子供」ではなく「黒人」であったそうだ)。このとき子供の父親は、「……なんてこった! ちょっと聞いておくれ、むじゃきな子どもの言うことなんだ。」と叫んだ。「無邪気な」子供は見たままのことを言ったのであり、見たままのことが必ずしも正しいとは限らない。まして、この場合、「バカには見えない服」なのであるから、この子供はバカなのだと結論付けることもできる。


童話では、それにもかかわらず、この言葉が伝わって、最後は一人残らず「王様は裸だ」と叫ぶようになるが、それは「王様は裸だ」ということが立証されたということではない。それにもかかわらず、どうしてそうなったのか、最も肝心の部分が簡略に書かれているだけなので推測するしかないが、俺の推測では、「王様が裸であれば、自分はバカではない」ということになり、それは自分だけではなく、(王様を除く)他者にとっても都合の良い結論であり、自分の主張に同意してくれるに違いないということに人々が気付いたということではないだろうかと思う。それは、子供の叫びに反応する人の表情などをお互いに見て「空気」を感じ取り、最初はおそるおそる自信なさげに、そしてその反応を見て、また別の人がというようにして、次第に広い範囲に拡がっていったのであろう。


つまり、人々は最後まで実体が何であるかわからず、「お互いの顔色」をうかがっており、社会的関係を気にしているが、前者より後者のほうが、より人々にとって都合が良い結論であったために、そこに落ち着いたということであろう。そして、これは人々がそうしたいと望んで自発的に行動した結果ではなく、偶発的な出来事によって、そうなってしまったのだと、俺には思える。だから、こうなることは必然ではなく、仮にこうなる可能性が高かったとしても、それがいつ起きるかは予測不可能であったろうと思うのである。