江戸幕府と浄土真宗

引き続き「極東ブログ」のエントリーから。

 エピソード的な部分で、思わず、げっと声が出てしまったのは、本願寺が江戸時代を通じて宗号も認められず、寺院扱いもされなかったことだ。浄土宗からの 妨害にもよるが、最大の理由は親鸞の僧籍らしい。たしかにそれはそうだ。さらにうなったのは、よって、親鸞上人といった号や見真大師号も公的に禁止されて いたことだ。つまり、親鸞上人が成立するのは明治時代だ。しかも浄土真宗が反幕府であったために、逆に明治政府から親近であり、廃仏毀釈時にも優遇された ようだ。そ、そうなのか。


『江戸の経済システム』で「高僧の称号である上人や大師号も江戸時代には使用を許されていなかった。」と書いてある部分だけれど、果たして「上人」を称するのに許可が必要なのだろうか?

法然上人と呼んだり、法然聖人と呼んだりするのはどうしてなのでしょうか? - Yahoo!知恵袋


「法橋上人位」という朝廷から下賜される位があるようだけれど、僧侶の敬称としての「上人」には特別な許可は必要なさそう。一方、「大師」は、

「高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは諡号である。

大師(ウィキペディア)

明治9年(1876年)11月28日[1]に明治天皇より「見真大師(けんしんだいし)」の諡号を追贈されている。

親鸞(ウィキペディア)


明治になるまで「大師」ではなかったのだから、禁止されるとか、許されるとか以前の問題。江戸時代に何度か大師号を得ようと画策したものの、失敗したようだ。その理由が「僧籍」の問題。で、その際に京都所司代から、「善信」という者は清僧とは言い難いから、禁止することはしないけれど、この者を「親鸞上人」と呼ぶことを「遠慮」するようにと言われたらしい。薮蛇ってやつですね。


あと、「宗名論争」についてはウィキペディアが詳しい。
一向宗


それから、「浄土真宗が反幕府であった」とあり、『江戸の経済システム』では「幕府から冷遇されていた本願寺派」とある。「反幕府」であったのは、豊臣秀吉が寺地を寄進した「本願寺派西本願寺)」のことだと思われ。東本願寺は幕府側・西本願寺は反幕府側と大雑把に分けることができるだろう。ところが、この本には、「北海道開拓」についても触れ、こうした「厚遇」の背後に浄土真宗が反幕であった事情があると書いてある。しかしウィキペディアの「本願寺道路」を見ると事情は正反対。東本願寺が親幕府であったため、存続のために引き受けざるをえなかったということらしい。

本願寺道路