童謡「通りゃんせ」の意味を解読してみる

@nifty:デイリーポータルZ:「通りゃんせ」発祥の地で歌詞の意味を探る
を読んで、ふと思いついたので…

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

通りゃんせ(ウィキペディア)


不思議な歌である。


最初に「ここはどこの細道じゃ」と聞いている。聞いている者はここがどこかわかっていないのだ。それなのに「ちょっと通して下しゃんせ」とはどういうことだろうか?通りたいのには通りたい理由があるはずだ。たまたま通りかかったら、ここが天神様の細道だとわかったので、ちょっと通ってみたくなったのだろうか?それとも天神様の細道を探していて、尋ねたらここだとわかったので通してほしいとお願いしたということだろうか?その後「この子の七つのお祝いにお札を納めにまいります」と言っているところをみると後者であるように思えるし、そのように解釈しているものが多いようだ。


しかし、別の解釈もできるのではないか?「ここはどこの細道じゃ」「ちょっと通して下しゃんせ」、「この子の七つのお祝いにお札を納めにまいります」というのは同一人物の発言ではなく、別人の発言かもしれない。そもそも、「遊び」としての通りゃんせは複数の子供が列になって関所をくぐっていくものだ。


一方、「通りゃんせ」と言っているのは一体誰なのか?それは関所の役人(あるいは門番)ではないのか?ところが次に「御用のないもの通しゃせぬ」とある。これが関所の役人であることはほぼ間違いない。用がなければ通さないという厳しい態度と、(構わないから)通りなさいと言っているように聞こえる前者が同一人物であるとはとても思えない。


だが、ここで「遊び」としての通りゃんせを思い起こしてみよう。関所役の子供は二人いるのだ。そのことを念頭に置いて、俺の解釈では、「通りゃんせ」と言っているのは関所のスチャラカ役人Aであり、「御用のないもの通しゃせぬ」と言っているのは堅物役人Bであるということになる。


つまり、この歌は行きにスチャラカ役人Aに当ったら楽に通してくれるけれど、帰りも同じスチャラカ役人に当るとは限らない。堅物役人Bに当ったらえらいこっちゃという歌なんである。


もちろん堅物役人Bに捕まった者は、「だって、あちらのお役人様が通っていいって言ってましたよ」と抗議する。すると堅物役人Bはスチャラカ役人Aに「この者がそう言っているが本当か?」と聞く。するとスチャラカ役人Aは「確かに拙者は通っていいと言ったが、それは通る資格のある者は通っていいという意味で、誰でも通っていいという意味ではない」と弁解するのであった。それでもさらに「おいらも不安だったからお役人様に手形持ってないんだけど本当に通っていいんですか?って聞いたら何も返事がなかったのでOKだと思った」と抗議すると、スチャラカ役人Aは「法律では通行手形を所持しない者は原則として通行できないとある。ただし例外規定があるので一概に所持していないからといって通せないというわけではない。従ってその質問には返答しようがないではないか。そのような愚問に一々対応するほどこっちは暇じゃねえんだ」と逆ギレされる始末…


って最後の方は完全に妄想ですまん(というか最初から最後までただの思いつき)