100人の村の高齢化問題

先進国の高齢化:定年の終焉  JBpress(日本ビジネスプレス)

 米国では公的年金の支給開始年齢は66歳だが、平均的な米国人は64歳で退職し、それから大抵さらに16年生きることになる。経済協力開発機構OECD)諸国の公的年金に対する平均支出は現在、GDP国内総生産)の7%以上に相当する(米国では1935年当時、この比率がわずか0.2%だった)。


経済素人の俺が話を単純化してみる。


あるところに村人が100人の村がありました。この村で生産するものは米だけ。その他の生活に必要なものは自然に存在しているので生産する必要がありません。生きていくのに必要な米の量は老若男女問わず一人当たり年に一俵であったので、村全体で米百俵を生産する必要がありました。この村には90人の若者と10人の老人がいました。そこでこの村では若者90人で米百俵を生産していました。一人当たり100/90、約1.1俵の計算になります。


ところが、この村でも高齢化が進み、若者50人に対して老人50人の超高齢化社会が到来することが予想される。今まで通り若者一人当たり100/90俵の生産では村全体で、約55俵にしかならない。45人は飢え死にしてしまう。どうすればよいだろう?A案では若者が一人当たり2俵の米を生産する。しかし労働時間は今までの約2倍に増え、しかも増産した米は自分のためではなく老人が食べるためのものなのだからたまらない。過労死の心配もある。B案は老人も米を作るべしとするもの。彼らが若者だった時代の老人は働かなくても食べていけたのに自分達が老人になった時には働かなければならないという不平が出てきそうだ。しかし、村人が生きていくためには、どっちかの案を取るか、両方を組み合わせるかして米は必ず百俵生産しなければならない…


と、これは最も単純なケース。実際には例の「生産性の上昇」というやつがある。もし、今までと同じ労働力で2倍の米が生産できるとしたら、若者は今まで通りに働き、老人は今まで通りに働かないで、誰も飢え死にすることがない。めでたし、めでたし…


と、これも話が単純すぎる。100人の村で老人が10人から50人に増えるのと、生産性が2倍にアップするのとが同時進行で起こるとは限らない。高齢化するまでの期間が50年として、生産性の上昇が僅か10年で達成されてしまったとしたらどうなる?米が余ってしまうのである。誰も食わない米を作ったってしょうがない。


この場合二つの選択肢がある。一つは一人当たりの労働時間を減少させるということ。というのは良さそうにみえるけれど、将来高齢化した暁には労働時間は元に戻るのだ。「戻る」というのは、減ったことを知っている人にとっては「戻る」だが、最初からその労働時間だった人にとっては「増えた」ことに他ならない。労働時間を増やさないためには、さらにその時点から生産性を上昇させなければならない。単純に2倍にすればいいというものではない。もう一つは余った米を別の用途に使うということ。日本酒に加工すればいい。これは生活が豊かになったということだ。だが、これも将来的には米余りが解消されるので、加工用の米はなくなる。日本酒がなかった時代に生きていた人は一時的な豊かさが終わったと納得できるかもしれないが、日本酒を飲むのが当たり前だと感じている人には納得できるものではない。日本酒を飲むという「当然の権利」のために餓死者がでてしまうかもしれない。この場合もその時点からさらなる生産性の上昇が求められる。


しかし、これもまだまだ単純すぎる話、でも長くなるのでいったん終わる。