夫婦別氏

詳しくはないけれど興味はある。後で調べるときのためのメモ。


平田国学と夫婦別姓(メモ) - Living, Loving, Thinking

この小文では、上条宏之『もう一つの夜明け前−−近代化と贄川国学者たち−−』という本を引き、(島崎藤村『夜明け前』の舞台となった)木曽の「贄川宿」に(既に夫婦同姓が法制化されていた)明治20年代、30年代の「夫婦別姓」の墓が残されていることを紹介している。


夫婦別姓 - Wikipedia

明治9年3月17日 太政官指令:夫婦別氏の制定

婚姻後の妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)と、国民全員に夫婦別氏を定めた。これは氏(氏族・家系名)を採用し、名字(家族、親族名)を採用しなかったため。しかし名字は持つが氏は持たなかった庶民は、妻が夫の名字を称していた。

明治31年 (旧)民法成立:夫婦同氏の制定

 明治民法では家制度(または戸主制度または家父長制など)を導入し、戸籍は家を示すものとされた。婚姻その他身分行為は戸籍上の届出を形式的成立要件とした。明治民法788条では「妻は婚姻によりて夫の家に入る」と定められ、夫婦が家を同じくすれば氏を同じくすることとされた。明治の家制度では婚姻には戸主の同意を必要とするなど、戸主の権限が強かった。


カード 夫婦別姓旧慣習説を否定する学説−大藤修: 川西正彦の公共政策研究
○ きわめて例外的な姓を付した自己表示

3)幕末の女流志士として有名な「多勢子」は、信濃国伊那郡山本村の豪農「竹村」家に生まれ、同郡伴野村の「松尾」家に嫁いだが、彼女が平田国学の門に入った際、むその誓詞帳に「信濃国伊那郡伴野村松尾左次右衛門妻 竹村多勢子 五十一歳」と登録した。

松尾多勢子 - Wikipedia
松尾多勢子 - 膏肓記


孝明天皇の死について - 膏肓記
のコメント欄に

伴野村なる竹村[松尾]多勢子の方に潜み、

とあるから、周囲(平田学派)も「竹村」が「姓」だと認識していたということだろう。


ただし、平田国学の門に入ったのは五十一歳の時であり、当時の感覚としては、老人といえるだろうから、家業としての妻の役割を引退している年齢だというのも関係あるのかなと思ったりして…



CiNii - 先祖代々之墓の成立
これすごく面白そう