「科学的に正しい」とは

疑似科学的思考批判:王様は裸だ!Annex:So-netブログ
を読んだ。


俺はニセ科学批判を何度か批判している立場であり、ここで述べられていることにうなずける部分は多々ある。けれど同意しかねる部分もある。なぜ同意しかねるのか考えてみるに、おそらく「科学的に正しい」とはどういうことかの認識の違いによるものと思われる。


科学と「正しさ」について考えてみた:王様は裸だ!Annex:So-netブログ

 ハブハンさんにおける『科学的に正しい』とは、「科学的な方法による検証をクリアしたこと」を意味する事が分かった。
 これはいわば“定義”だよね。

だが、これにしたって「科学的な方法による検証をクリアしたこと」をどうやって判定するのかという問題が残る。それをクリアしたってまだ問題は残り永遠にクリアすることは不可能。


結局のところ「絶対的に正しい」という判断を下せるのは「絶対者」のみであり、「科学の神」が降臨して「これは正しい」「これは間違っている」などと判定することが望めない以上、「科学的に正しい」というのは暫定的なものにすぎない。


では、その「科学的に正しい」という判断は何によってなされているのかといえば、結局のところ「多数決」である。


多数決といっても国民が投票して過半数の賛成で決めるわけではない。科学的な方法論を身に付けたとみなされた科学者の大多数が「科学的に正しい」と認めることによって判定される。なお科学者といっても専門分野が異なり、とりわけ現代では細分化されているから「科学的に正しい」と判断するといっても各々が独自に実験等で確認して「正しい」と判断するわけではない。その分野において、もし間違った科学理論が発表されたとしても、やがて間違いは訂正されるだろうという「信用」がそこにはある。


「科学的な方法論を身に付けたとみなされた科学者」の中にも、かなりおかしな「科学者」が混じっていることは、最近の例を見ても明らかだ。しかしそれでも科学界はまともだと言っていいだろう。なぜ「まとも」だと言っていいのかといえば、現実に科学が我々に概ね恩恵を与えてくれているからである。なぜそれが「恩恵」だと言えるのかといえば、我々がそれを「恩恵」だと思っているからである。


非常に複雑だけれど実際はもっともっと複雑であって、それらが積み重なって「科学的に正しい」が成り立っているのである。どこにも絶対的なものはないけれど、それでも今のところそれで上手くいっているのだ。無論、今まで上手くいっているからといって今後も上手くいくとは限らない。それも可能性としてあるよね程度の話ではなく、超長期的に考えれば十分ありえることではある。しかし未来にどんな事態が発生するのか予知することは不可能だから、そんなことを言っても現代に生きる我々にはどうしようもないことでもある。


こういった見方は政治的な意味での「保守」と類似している。一方「革新」的な見方をすれば、そこに「絶対的」なものを見出そうとして、「科学的に正しい」が絶対的な色彩を帯びる(「
絶対ではない」と口では言うだろうけれど)か、逆に科学の絶対性を疑い否定する方向に進む。



※ なお「科学的に正しい」という言葉を使う場合、通常それは「この科学理論は永久不変である」という意味で使うのではなく、「科学以外の価値観で正しいとは限らないが科学的には正しい」という意味で使うものだと思われ。「科学は絶対ではない」という言葉は二つの意味で使用されているにもかかわらず混同されていることがしばしばある。



で、「グレーゾーン問題」だけれど、何をもってグレーゾーンとするのかといえば、要は科学者が「グレーゾーン」だとみなしたもの、あるいはある科学者は疑似科学だといい、またある科学者はそうではないといい、というように意見が分かれているものがグレーゾーンなのである。当然そこには絶対的な基準などない。しかしながらほとんどの科学者が一致して、これは疑似科学だとみなすものがある。それが「真っ黒」ということだ。


ではなぜ「グレーゾーン」を見逃して「真っ黒」だけを取り上げるのかといえば、これは科学的な判断ではなくて、グレーゾーンを取り上げると科学者の中にも擁護するものが出てきて収拾がつかなくなる。グレーゾーンを白黒はっきりさせるまで全てに手をつけることができないのだとすれば、疑似科学に対して何もできないということになる。そりゃまずいだろという話でしょう。


疑似科学問題ではないけれど徳保隆夫氏が
「基準を明確化しろ」は感情論のひとつ
で主張しているところがこの問題に対する答えになるでしょう。