「高麗仏画」が「里帰り」

高麗仏画が日本から韓国へ里帰り 「信頼あればこそ」:朝日新聞デジタル

鄭教授は仏画の隅に制作年代として「1359年」のすかしがあるのを発見。「純金で描かれた高麗仏画が日本に」と韓国の学会で発表した。

もちろん西暦のはずがない。

16世紀初め、日本へ渡った高麗仏画「金線描(金粉で描いた)阿彌陀三尊図」が約500年ぶりに故郷に戻る。東国(トングク)大学博物館(館長=チョン・ウテク)は21日、「恭愍(コンミン)王8年(1359年)に制作された高麗仏画と確認された金線描阿彌陀三尊図を国内に招待し、24日から1ヵ月間、特別展示室で公開する」と話した。

金粉で描かれた高麗仏画、日本から500年ぶりに帰郷東亜日報
こっちには「恭愍王8年」とある、ただしそういう文字が発見されたとは書いてない。干支の可能性が一番高いように思うけれど確認できない。


朝日新聞記事には

寺に何度も足を運んだ鄭教授は今年、同館の開館50周年の特別展で紹介したいと提案。寺側は承諾し、地元の関係者を集めて17日に法要をし、門外不出だった秘宝を初めて送り出した。

とあり、寺の名前が書いてないのが不思議だ。東亜日報によれば住職が

寺の名前は公開しないことを望んだ

そうだ(住職の名前が書いてあるのでちょっと調べればわかってしまうのだが…)


さて、朝日新聞にも東亜日報にも書いてないのが、この仏画の来歴だ。「和寇によって略奪された」なんて話が出かねない。


寺について調べると

唐の高祖皇帝夫人の病気平癒のために、善導大師が描いた図法で、

蘭渓道隆によって日本にもたらされ、その後石清水八幡宮を経て武田家に伝わり、

信虎さんが難病の折に、この尊像の霊験によって全快したそうです。

http://d.hatena.ne.jp/kureha/20070613/1181717641
とある。ただし蘭渓道隆の没年は1278年なので1359年に製作された仏画をもたらすことは不可能。
蘭渓道隆 - Wikipedia


可能性としては、「仏画の由来が事実ではない」か「仏画の制作年が1359年ではない」のどちらかということになる。というか由来が全て正しければ制作年だけでなく「高麗仏画」ですら無いことになるわけだ。
善導 - Wikipedia


とはいえ善導は7世紀の人なので、さすがに7世紀の絵画と14世紀の絵画の見分けは容易であろうと思われ。中国で作られたのか朝鮮半島で作られたのかも専門家ならわかるのだろうけれど、鄭于澤氏の鑑定が信用できるのかは、もっと情報が無いと何ともいえない。


(疑えばきりがないが、そもそもこの仏画の制作年の「発見」自体がただの模様か何かを強引に文字とみなしているなんて可能性もある。いくらなんでもそれはないとは思うけど)


(追記11:30)
去年の記事
【文化財】絹に純金だけで描いた高麗仏画、山梨県の寺で発見、鄭教授「朝鮮仏画研究の重要な手掛かりになる」[11/02] - 東アジアニュース速報+::unkar

仏画の下端に、高麗の恭愍王の代に当たる1359年に製作されたことを意味する一文が書かれているのを発見した

これをみるともしかしたら干支ですらないのかもしれない。仏画に何か文字が書いてあって「これは恭愍王8年に高麗で起きた出来事を暗示しているのだ!」「な、なんだってー!」的なものである可能性すらある。


しかも

鄭教授は「学界ではこれまで、金泥だけを使って絹に描いた高麗仏画はないと考えられていた。阿弥陀三尊図は、製作年代が確実だということに加え、高麗仏画の中では最も新しく、朝鮮仏画との関連を研究する上でも重要な手掛かりになるだろう」と語った。

とある。すなわちこの仏画が高麗仏画の様式に類似しているから高麗仏画と鑑定したわけではなく「文字の解読」から高麗仏画と認定し、今まで無いと考えられていた種類の「高麗仏画」が発見されたとしているわけだ。


怪しすぎ。


(追記12:05)
同じく去年11月2日の朝鮮日報の記事によると

そこには「至正19(1359)年9月に比丘(びく)何如(ハヨ)など6人が布施をして仏画を作った」と書かれていた。

http://plaza.rakuten.co.jp/kakasinojamp/diary/201211020003/
とある。年号が書いてあるなら朝日の記事もそう書けばいいのに。続きがあってそこに書かれているのだろうか?

至正(しせい)は、中国・元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号

至正 - Wikipedia


しかしまだ疑問は残る。「比丘何如」が高麗人だとなぜわかるのだろうか?