三浦佑之氏の浦島太郎解釈
⇒「浦島太郎」にカットされた真の結末 永遠の命もつ鶴に生まれ変わる - ライブドアニュース
そんな浦島の手には、持ち帰ってきた玉手箱があった。実は、これには浦島の魂が封じ込められており、浦島は老いない体になっていたのだ。
この三浦佑之氏の解釈は正しいののだろうか?それはもう少し検討してみなければならない。
それはともかく、ネットで浦島太郎について調べていると三浦氏の記事がいくつかヒットする。『浦島太郎の文学史』という本も出している。今度読んでみたいと思う。
- 作者: 三浦佑之
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ただ気になるのは、
⇒浦島説話(三浦佑之)
という記事。三浦氏が事典に書いた「浦島説話」の解説を自身のホームページに載せたもの。
現存する文献でもっとも古い浦島説話は『日本書紀』雄略天皇の巻に発端部分だけが記載されているが、その全容は『丹後国風土記』逸文によって知ることができる。
(中略)
地上に戻った島子は人間の世界では300年以上もの時間が経過していたことを悟り驚愕し、我を忘れて玉匣を開くと、瞬間的に若々しい体は天空に飛びかけってしまった、というような内容で語られている。
とある。『日本書紀』の浦島説話と『丹後国風土記』の浦島説話が同じものなのかという問題があると思うけれど、それはともかく『丹後国風土記』に「瞬間的に若々しい体は天空に飛びかけってしまった」という話が果たしてあるのだろうか?
『新編日本古典文学全集 (5) 風土記』(小学館)の現代語訳では
すると突如かぐわしい香の匂いが風雲と共に翻って、天上に昇って行った。
となっている。天空に飛びかけってしまったのは島子ではなくて「香の匂い」である。
どうして三浦氏が島子の体のことにしてしまったのかといえば、おそらくは「芳蘭之体」を島子の体と解釈したからだろう。『新編』ではこれに「芳蘭之体(よきらにのかおり)」とルビが降ってある。
検索すると「芳蘭之体」の解釈は諸説あるようだ。
⇒「芳蘭之体」 - 浦島説話研究所®
ただ、この記事にもあるように、これを島子の体としてしまうと、その後に島子が涙に咽んで徘徊したという記述との整合性がなくなってしまう。
この玉匣は女が島子に「私を捨てないでここに戻ってきたいのならこの匣を絶対に開き見てはいけません」と言って渡したものであって、島子は「芳蘭之体」が天空に上ったことで彼女に再び逢えないことを知ったとあるのだから、それが島子が「開き見た」ということであって、天空に登ったのが島子自身であるのなら、それを島子が見ることは不可能であろう。少なくとも島子の体ではないように思われる。
では「芳蘭之体」とは何かといえばそれはわからないけれども、それが女と島子が再び逢うために必要なものだったという解釈ができるのではないだろうか?
それは玉匣の中に閉じ込められていて、匣を開けると空に飛び散ってしまうものだったから、女は「開いて見てはいけません」と言ったという、ある意味「科学的」な話だったのではないだろうか?だとすれば「かぐわしい香の匂い」という解釈が一番説得力があるように思われる。
※なお「体」とは「芳蘭」の「体」、すなわち「かぐわしき蘭」の体、つまり「匂いの元」ということではなかろうか?現代科学では匂いは分子が鼻の粘膜を刺激して起こす感覚のことだけれども、この時代においてそれを理解しているとは思われず、物質と匂いは分離していると考えられていたのではないだろうか?だから匂いが天空に飛んでいっただけでは匂いの元は残っているということになってしまうので、匂いの元が飛んでいってしまったという表現になっているのではないだろうか?
さて、これをどう解釈するのかは極めて重要な意味を持つと俺は思う。というのもこの話は「バッドエンド」ということができるだろうけれど、その「バッド」とはどういう意味での「バッド」なのかということに関わってくるからだ。
(たぶんつづく)