(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その4)
諏訪法華寺で信長が光秀を折檻したという「伝説」の普及に『明智光秀』(高柳光寿 1958)の果たした役割は非常に大きかったのではないかと推測する。
高柳博士は偉大な学者だから、影響力は大きかっただろう。博士自身はこの話を信用できないとしているけれども、史実かはともかく江戸時代初期の史料に諏訪法華寺の事件が書いてあるということは「事実」として広まった可能性がある。
検索したところでは、八切止夫の『信長殺し、光秀ではない』(1967)にも法華寺であったこととして書かれている。津本陽の『歴史随筆 男の流儀』(1992)には『祖父物語』とは書いてないがこの話が紹介されている。そして当の法華寺の案内板にもこのことが書かれており、昨日の大河ドラマでもこの話を採用し、さらに番組最後の「真田丸 紀行」でも紹介されている。
ネットで探して唯一問題点を指摘しているのは、意外と言っては何だが渡部昇一氏で
高柳氏の要約を引用すれば次の通りである。
「甲州征伐のとき信長は諏訪の法華寺に陣取った(原文には「信州諏訪郡、孰(いず)れの寺にか、御本陣を捉ゑらるヽと……」とあって法華寺の名はない)。
というものだけれども、これにしたって、そもそも信長はまだ諏訪に入っていないという肝心な点には触れていない。
高柳博士の著書が出てから半世紀以上が経過した。その間に誰か「それは違うんじゃないか?」とツッコミを入れなかったのだろうか?もしかしたら入れた人もいかのかもしれないけれど、依然としてこの「事実」は流通し、批判はあったとしてもどこにあるのかわからない状態が続いている。
以上の考察により、この「伝説」は戦後になって新たに誕生した「伝説」である可能性が非常に高いと思うのである。
ただし、一つだけとても気になることがあるのであった。
(つづく)