福島正則の「西上」(その6)

もう一つの可能性


既に書いたように、福島正則宛家康書状の「人数之儀者被」の「上」が上洛するという意味である場合、『福島太夫殿御事』はそれにピタリ当てはまる。だが実を言えばここに一つの大きな問題がある。それは通説では『武徳編年集成』にしたがい「人数之儀者被」を採用していることだ。


『武徳編年集成』は1740年頃の成立。著者の木村高敦が「上」を「止」と改竄したとするならば、逆に言えば、それ以前には「上」が流通していたことになる。したがって、『福島太夫殿御事』の記述は「人数之儀者被上」という文を見て、家康は妻子が人質になっている諸将の上洛をすすめたと解釈した可能性があるということだ。『福島太夫殿御事』がいつ成立したのか情報が見つからないので俺は知らない(図書館で探せばあるかもしれない。今後調べる)。『福島太夫殿御事』が『武徳編年集成』を採用せず「人数之儀者被」を採用していた場合、「上」の意味を正しく理解していれば(理解していたことは確実だろう)、7月19日に正則を(三成を討つために)上洛させる決定があったとは考えられず、別の可能性を考えるはずだ。よって『福島太夫殿御事』に書かれていることは、こういうことがあったのだろうという推測に基づいて書かれた可能性を捨てきれない。


今まで書いてきたことと反するが『福島太夫殿御事』の記事がそういうものであった場合は別の可能性を考えなければならない。というか、実を言えば、俺が最初に思いついたのが「別の可能性」だった。その後で調べていると『福島太夫殿御事』のことを知ってピタリ符合するじゃないかと思ったのだ。どっちの可能性の方を採るべきか未だに揺らいでいる。


その別の可能性というのは、「人数之儀者被」の方が正しいという可能性。より正確に言えば、「人数之儀者被」は正しいけれども、正しくなく「止」が正しいという可能性だ。


何を言ってるかわからないだろうから、これから説明する。


(つづく)