呉座勇一氏について(3)

Twitterに書いたことをまとめて一部加筆修正した

 (呉座騒動が起きる約一か月前に書いたもの)

 

 

何度も書いてるかもしんないけど、トンデモ歴史研究家に対して「小説家に戻れ」などと言うのはダメな批判の典型だと思う。せいぜいが「歴史本書くのを止めろ」であって(それだって書くのは自由だから俺は嫌いだが)何をするべきかなんて他人がとやかく言うことじゃない。

 

赤の他人の行動に介入しようとするのは傲慢としか思えないし、そんなこと言われたからといって「はいそうします」と素直に応じるなんてことはまずありえないので、言えば応じると本気で思ってるならその人もまた非常識な人でしょう。

 

まあ本気で「言えば応じる」と思ってるとも考えにくいので、じゃあ何でそんなこと言うんだということになるけど、そこは正直俺にはわかりませんね。単に相手の感情を害させようとかかもしれず、本人ですらわかってないかもしれませんね。

 

トンデモを批判する側が、適切でない方法でトンデモを叩くことは百害あって一利も無いと俺は思いますけどね。

 

歴史研究者にできることは、間違ってることは間違っていると指摘すること。それに尽きると思いますね。それでどれだけ効果があるかといえば、目覚ましい効果があるわけでも無いとは思うけど、だからといって余計なことをしたら効果があるというわけでも無くて、逆に害になると思いますけどね。

 

※ 念のために書いとくけど俺は井沢元彦トンデモ歴史研究家だと思ってる。しかし、それはそれとして人が何をやろうが自由だ。もちろん批判するのも自由だ。だが「小説家に戻れ」(正確には「推理小説家に戻られてはいかがだろうか」)などと職業まで赤の他人が指図することは傲慢であろう。「あんた何様?」って感じ。

 

※ そもそも論として、呉座氏が井沢氏と論争してるのが俺には奇異に見える。そんなことして何になるというのだろうか?論争するといっても呉座氏は井沢氏の主張を受け入れるつもりなど皆無だろうから結局井沢氏を言い負かすことのみが目的であろう。もちろん井沢氏も「呉座氏のおっしゃることはもっともだ」などど素直に批判を受け入れる可能性もほぼ無いだろう。両者が歩み寄ることなど期待できない。不毛だろう。いわゆるパフォーマンスというやつですかね?

 

 

呉座勇一氏について(2)

Twitterに書いたことをまとめて一部加筆修正した

国家鮟鱇 on Twitter: "G座氏のツイッター過去見てる。HG氏に対する批判「本郷」「HG」「H郷」で使い分けてるわけじゃないんだろうけど「H郷」が特にひどいですね。著者近影がキモいとか、さらにもっとひどいのもありますね(さすがに書けない、もちろん本当に実行するわけじゃないんだろうけど)"

 

呉座氏のツイッター過去見てる。本郷和人氏に対する批判「本郷」「HG」「H郷」で使い分けてるわけじゃないんだろうけど「H郷」が特にひどいですね。著者近影がキモいとか、さらにもっとひどいのもありますね(さすがに書けない、もちろん本当に実行するわけじゃないんだろうけど)

 

※ツイセーブで閲覧。近く呉座氏のツイッターアカウントは削除される予定らしいので、それ以降も見れるかはわからない。

Yuichi Goza (@goza_u1) のツイート - ツイセーブ

 

今に続く本郷氏批判の流れは呉座氏周辺から始まったんでしょうね。俺はそれより前からしてたけど。呉座氏のは鍵垢だから見えなかったし。

 

※ 俺の本郷氏批判は左上にある検索窓に「本郷和人」または「本郷」と入力して検索すれば出てくる。初出は2011年9月22日。当時の本郷氏はつい最近までの呉座氏と同様(少なくとも一般には)高い評価を受けてたんですよね。

 

呉座氏の本郷氏批判はかなり多いんだけど、批判といっても「本郷氏批判」であって、「本郷氏の説批判」(「坂本龍馬暗殺の黒幕は薩摩藩」のような)、具体的に何の説が間違ってるというのは少ないですね。しかもそれ今の説と違う。古いとかいうようなものが主ですね。

 

俺の場合は本郷氏の本やネット記事を見て、そこおかしいのではないか?と思って調べるというものなんだけど、呉座氏の場合は現在の通説・定説と本郷氏の説が違うというだけの話がほとんどですね。

 

『「旧説」であって「珍説」ではない』って書いてますね。俺は本郷氏「珍説」だらけだと思いますけどね。

 

俺は本郷氏と呉座氏はどっこいどっこいだと思いますね。知識はある。でもその説がどのようにして出来たかの理解が足りない。だからその知識を応用しようとすると「珍説」になる。昨日の文永の役見てもそんな感じ。

 

 ※ 文永の役についてはまた別に書く予定。
 
たとえば『陰謀の日本中世史』に
「陰謀の発案者は一〇〇%完璧に未来を見過ごすことができる完全無欠の天才(超能力者?)である」という発想が陰謀論の根底にある。」
と書いてある。確かに「似たような話」は呉座氏以外がしているのもよく目にする。しかし通常これは「陰謀論の根底にある」のではなく、陰謀論を信じるならば、結果的に発案者は「完全無欠の天才」と見做さざるを得ないという、陰謀論批判者側の皮肉として使われるのが一般的だろう。

 

これを持ち出すべきか少し戸惑うけどすぐに思い付くものが無いので出すけど、たとえば「安倍晋三最強説」。安倍氏批判の陰謀論をつきつめれば安倍氏がスーパーマンになってしまうという皮肉。

togetter.com陰謀論者は陰謀を実行するには大変な能力・労力が必要だということまで考えが及ばないので結果的に「完全無欠の天才」になってしまうのであって、「陰謀論の根底にある」ものでは無い。

 

たとえばこれは陰謀論じゃないけど「江戸しぐさ」の「江戸っ子大虐殺」。これは「江戸しぐさ」があったのなら、なぜその痕跡が一切残ってないのか?当初はそこまで考えてなかったから、辻褄合わせのために後付けされたものだろう。

 

当初は深く考えずにお気楽に作られた陰謀論が、矛盾を糊塗していくうちに「完全無欠の天才」を必要とせざるを得なくなっていく場合もあるだろう。

 

呉座氏はこの話をどこかで聞きかじって、よく理解できないまま、因果関係を間違えて「陰謀論の根底にある」としてしまったのではないか?

 

※ あとから陰謀論に浮上した疑問点をクリアするために「完全無欠の天才」にした(せざるをえなかった)か、あるいは陰謀論批判者によって「そんな陰謀は完全無欠の天才でなければ成し得ない(よって陰謀は無かった)」という文脈で使われるものだろう。後者の方が多いのではないかと思う。最初から陰謀の発案者は「完全無欠の天才」という認識で陰謀論が作られたというケースはあるのだろうか?もしかしたらあるかもしれないが俺は知らない。多くはその陰謀を実行するのには、現実には様々な問題をクリアしなければならないのに、そこまで考えが及ばず、権力を持つものであれば「完全無欠の天才」で無くてもいとも簡単にできると思ってただけなんだと思いますけどね。