ひとりごと

俺は政治・哲学の素養が全くないので頓珍漢なことかもしれないけど。


「多様な価値観を尊重しなければならない」みたいなことが唱えられています。「あなたが常識だと思うことは、他人にとっても常識であるとは限らない」みたいなこともよく聞きます。


でも、「多様な価値観の尊重」を声高に唱える人が、本当に多様な価値観を尊重しているのだろうか?という疑問が時々あります。
そういう人達の言う「多様な価値観の尊重」とは、その上位に絶対的なイデオロギーがあって、それの許す範囲で「多様な価値観の尊重」ということじゃないのかと感じてしまうことがたまにあるんです。


具体的には、「言語の多様性」とか「服装の多様性」とか「食習慣の多様性」とか、あるいは「上位に位置するイデオロギーを揺るがさない程度の宗教の多様性」とか、そういうのが「多様な価値観の尊重」であるというような感じ。「多様な価値観の尊重」といっても絶対に譲れないものがある、というか、その「上位のイデオロギー」は最早『空気』のような存在で、認識すらしていない。それと違う『空気』を吸って生きている人には、違和感があるが、日常的にその『空気』を吸って生きている人には、あまりにも当然のことなので何も感じない。


ただし、「人を殺してはいけない」みたいなものは、多様な価値観があるとはいっても、多くの人が共有している価値観であろうということは予想できるので、一々断り書きをすることなく、みんなが共有している価値観であることを前提に話をすることはある。
ところが、それほど圧倒的に優勢な価値観というわけでも無さそうなことであっても、まるで全員がその価値観を共有しているかのように語ることがある。しかも本人はそれに気付かない。(方言を標準語だと思って話したら意味が通用しなくて、そこではじめて方言だと気付く感覚に似ているか?違うか…)


だから、自分では自分のことを「多様な価値観を尊重している」人間だと何の疑いもなく信じていて、それどころか他人にも自分のようになれと主張さえしているのに、肝心のその人が他人から見たらそういう人には見えないし、それを指摘されても理解できないで、中傷されたと思ったりする。なんてギャグみたいなこともあり得る。


普段は感心させられることを言っていると思う人でさえ、その考えが正しいに決っているかのように、疑いを差し挟む余地など一切無い良い事であるかのように語っているように見えてしまう時がある。それが世間一般が共有している認識では無さそうであるにもかかわらず…
(ただし、指摘すれば、そういうつもりは無いと反論されるだろう。実際、明確にそう主張しているわけではない。巧みな人だと抜目なく逃げ道を用意してある。それでも受け取り手である俺にはそう感じられるといった程度のことである。)


そこで唱えられていることは「理想論」であり、現実から導き出されたというよりも、抽象的な思考から導き出された結論のように、俺には思える。
それは、俺がその考え方に共感できないからかもしれないし、そうではなく別の理由からかもしれない。自分でも良くわからない。
別に「理想」を唱えるのが悪いとは思わないが、その唱え方に違和感がある。


前にも書いたけど、俺は「自由主義」と「保守主義」の違いについて興味がある(それについて勉強しようと思っているんだけど、なかなか手につかないんだけど)。一見すると両者には共通点が多いのだが、土台は大きく異なるらしい。その違いと似たようなものがあるのかもしれない。(最初に書いたように、俺には素養が無いので頓珍漢なことを書いているかもしれないですけど。)


(下書き段階ではもうちょっと具体的なこと書いてたんだけど、書き直している内に面倒になって削ってしまい、抽象的な文になってしまった。)

「Aさん」と「アンチBさん」

「Aさん」「アンチBさん」といっても、具体的に誰がということではない。あるパターンについての考察。

「A」という、ある価値観を持っている人がいる。
それに対して、正反対の考えを持っている人がいる。これを「アンチA」とする。

一方「B」という、外見上は「A」に似ているのだが、根本的には異なる価値観を持っている人がいる。
それに対して、正反対の考えを持っている人がいる。これを「アンチB」とする。

「A」と「B」は、山手線と京浜東北線のように、同じところを走っているように見えて、別の路線を走っている。
同じく「アンチA」と「アンチB」も別の路線を走っている。「A」と「アンチA」の方がむしろ同じ路線を走っているという意味で近い関係にあるということもできる。ただし、場合によって「A」と「B」は、外見上の類似を利用して、「共通の敵」に立ち向かうために協調することがある。「A」と「アンチA」、「B」と「アンチB」が協調するということは滅多にない。


さて、「アンチB」が「A」の主張を見たとき、どうにも納得できないので、批判しようとする。
この場合、まず、自分の走っている路線と相手の走っている路線、すなわち「価値観」が異なることを説明した上で、批判すべきである。
しかし、それはとても手間のかかることなので、安易に「A」と同じ路線上にある、「アンチA」が使うような論法で批判してしまう。すると、今度は当然のことながら「A」が「A及びアンチA」が共有している価値観でもって反論してくる。それに対して「アンチB」が再反論…というように議論が進んでいく。
ところが本来「アンチB」と「アンチA」の価値観は異なっている。最初に安易に「アンチA」の論法を借用してしまった「アンチB」は、自分が一体何を主張したかったのか、わけがわからなくなってくる。軌道修正しようとすると、前言との矛盾が生じてしまい、それでも強引に議論を続けようとすると、混沌はさらに続き、収拾が付かなくなる。


こういうパターンってありがちですよね。

「何を言っているか」では無く、「誰が言っているか」

これについては、昨日すでに書いているんだけど、もう一度的を絞って考えてみたいと思う。

これは一見まともな主張に見える。というか「科学的」には正しい。


『ある人物が書いたものが、その人物のプロフィールに新たな項目が加わったからといって、中身にいささかも変化があるものではない。
いくら世の中に多様な価値観があろうとも、それに異議を唱える人はなかろう。
もしいるとすれば、現在の科学理論に反抗しているような、ちょっとユニークな人くらいのものだろう。
自分は多様な価値観を尊重する人間だから、そういう人がいてもあえて攻撃しようとは思わないが、そうではないその他大多数の人間には、自分が言っていることを了承してもらえるだろう。』


と、直接に書いてあるわけじゃないけど、そういう雰囲気が感じられるんですね。少なくとも俺にとっては。「いつ・どこで・誰が書いているんだ?」とツッコミ入れられるとややこしいことになるんで、ここではそういう言説があったと仮定しよう。


そして、それは確かに正しい。しかしそれは物事の一部しか捉えていないように俺には思える。
すなわち「読み手の内面」という、とても大切な要素がすっぽりと抜けているということである。


さて、話は突然変わるが、俺は一昨日ブックオフでついにあのベストセラー、養老孟司先生の『バカの壁』を購入した(250円也)。
まだ最初の数ページしか読んでいない。だが、その第一章の最初に出てくる『「話せばわかる」は大嘘』だけは読んだ。

 このエピソードは物の見事に人間のわがまま勝手さを示しています。同じビデオを一緒に見ても、男子は「全部知っている」と言い、女子はディテールまで見て「新しい発見をした」と言う。明らかに男子は、あえて細部に目をつぶって「そんなの知ってましたよ」と言っているだけなのです。


感動した!!つかみはOKてなもんです。
全く同じものを見ているにもかかわらず、男と女では捉え方が違う。
もちろん男と女の間だけが違うわけではない。究極的には、一人一人捉え方が違うわけです。
さらに言えば「同一人物」であったとしても、時々刻々と捉え方が変化していくわけです。
同じ情報であっても、人はそれを直接処理するのではなく、各々複雑な仕組みによって、(無意識に)情報を取捨選択して受容していく。
人間とコンピューターの違いはこんなところにあるのでしょう。(科学音痴だから正確さに欠けているかもしれないが)


で、話は元に戻って、
俺は元々松永氏の文章をパソコンのように、一字一句正確に、そこに優劣を付けずに受け入れていたわけではない。
意識的あるいは無意識に取捨選択して受け入れていたのである。そこに新たに、「元オウム信者」という情報がインプットされる。
そして、新たに過去の記事を読み直してみた場合、以前に受けた印象と変わる場合もあれば、変わらない場合もある。少なくとも全く変わらないということはない。「少なくとも俺にとっては」、それがおかしなことだとは思えない。


ちなみに「何を言っているか」どころか「誰が言っているか」すら変化しなくても、捉え方が変化することは、日常的にあることではなかろうか?
例えば同じ作者の同じ小説を、10代に読んだとき、20代に読んだとき、30代、40代、50代に読んだとき、受け取り方が違うなんて、珍しくもなんともないことでしょう。


俺はここで松永氏のブログについて云々言いたいのではない。
過去にオウム信者であったかどうかなんて関係ないということを、当然視している(ように受け取れる)言説に違和感があるということを言いたいのである。