「何を言っているか」では無く、「誰が言っているか」

これについては、昨日すでに書いているんだけど、もう一度的を絞って考えてみたいと思う。

これは一見まともな主張に見える。というか「科学的」には正しい。


『ある人物が書いたものが、その人物のプロフィールに新たな項目が加わったからといって、中身にいささかも変化があるものではない。
いくら世の中に多様な価値観があろうとも、それに異議を唱える人はなかろう。
もしいるとすれば、現在の科学理論に反抗しているような、ちょっとユニークな人くらいのものだろう。
自分は多様な価値観を尊重する人間だから、そういう人がいてもあえて攻撃しようとは思わないが、そうではないその他大多数の人間には、自分が言っていることを了承してもらえるだろう。』


と、直接に書いてあるわけじゃないけど、そういう雰囲気が感じられるんですね。少なくとも俺にとっては。「いつ・どこで・誰が書いているんだ?」とツッコミ入れられるとややこしいことになるんで、ここではそういう言説があったと仮定しよう。


そして、それは確かに正しい。しかしそれは物事の一部しか捉えていないように俺には思える。
すなわち「読み手の内面」という、とても大切な要素がすっぽりと抜けているということである。


さて、話は突然変わるが、俺は一昨日ブックオフでついにあのベストセラー、養老孟司先生の『バカの壁』を購入した(250円也)。
まだ最初の数ページしか読んでいない。だが、その第一章の最初に出てくる『「話せばわかる」は大嘘』だけは読んだ。

 このエピソードは物の見事に人間のわがまま勝手さを示しています。同じビデオを一緒に見ても、男子は「全部知っている」と言い、女子はディテールまで見て「新しい発見をした」と言う。明らかに男子は、あえて細部に目をつぶって「そんなの知ってましたよ」と言っているだけなのです。


感動した!!つかみはOKてなもんです。
全く同じものを見ているにもかかわらず、男と女では捉え方が違う。
もちろん男と女の間だけが違うわけではない。究極的には、一人一人捉え方が違うわけです。
さらに言えば「同一人物」であったとしても、時々刻々と捉え方が変化していくわけです。
同じ情報であっても、人はそれを直接処理するのではなく、各々複雑な仕組みによって、(無意識に)情報を取捨選択して受容していく。
人間とコンピューターの違いはこんなところにあるのでしょう。(科学音痴だから正確さに欠けているかもしれないが)


で、話は元に戻って、
俺は元々松永氏の文章をパソコンのように、一字一句正確に、そこに優劣を付けずに受け入れていたわけではない。
意識的あるいは無意識に取捨選択して受け入れていたのである。そこに新たに、「元オウム信者」という情報がインプットされる。
そして、新たに過去の記事を読み直してみた場合、以前に受けた印象と変わる場合もあれば、変わらない場合もある。少なくとも全く変わらないということはない。「少なくとも俺にとっては」、それがおかしなことだとは思えない。


ちなみに「何を言っているか」どころか「誰が言っているか」すら変化しなくても、捉え方が変化することは、日常的にあることではなかろうか?
例えば同じ作者の同じ小説を、10代に読んだとき、20代に読んだとき、30代、40代、50代に読んだとき、受け取り方が違うなんて、珍しくもなんともないことでしょう。


俺はここで松永氏のブログについて云々言いたいのではない。
過去にオウム信者であったかどうかなんて関係ないということを、当然視している(ように受け取れる)言説に違和感があるということを言いたいのである。