ニセ科学批判も堕ちたものだ

俺はいわゆるニセ科学批判批判と呼ばれるようなことをしてきたんだけれど、それはニセ科学批判者というのは優れた頭脳を持っていることを前提としていて、そういう人達(インテり)であるが故に陥ってしまうことについて書いてきたつもりだ。


ところが今回のN氏の水伝騒ぎについてはどうだろう?本人が否定しているのだからそうなんだって、これじゃニセ科学を信じてる人と大差ないではないか。


いやまあ本物の信者ならどんな迫害にあっても信念を曲げない、だから否定しているってことは本物の信者ではないって考え方はできるかもしれないけどさ。だがそれにしてはおかしな点がいっぱいあるではないか。今までのニセ科学批判者のイメージとしてはそこんところを根掘り葉掘り追求するもんだと思ってた。


まあ、こんなことを書くとまた「全ての批判者が納得したわけではない」みたいなこと言うのかもしれないけれど、俺の観測範囲ではそういうこと言ってる人は「ちょちょんまゲ」って人だけ。
https://twitter.com/chochonmage/status/513483984722866176
それも結局のところ書いてるのは「どうも納得がいかん」ということだけ。どのような説明があれば納得できるのかは書いてない。


代わりに俺が書くけれどN氏は少なくとも
(1) どのような実験を行ってどのような結果が出たのか
(2) 実験を参加者がどう受け止めたと理解したのか
(3) N氏自信は水伝についてどう考えているのか
(4) 森下氏とは何を通じて知り合い親密に交際しているのか
についての説明が必要であろう。


より詳細に説明すれば、きっかけとなったブログの釈明によれば

実験により、水の結晶に変化の違いは見られたのですが、
再現性は確認されておらず、科学的根拠もまったくありません。

先日に記事について: MORISHITA HIROMICHI BLOG
とある。「だから水伝は否定されたのだ」と考えるのは早計で、消された記事を見れば少なくとも数回は、良い言葉をかけたときと悪い言葉をかけたときでは結晶に違いがあることが認められたわけであり、そこから導き出される結論は必ずしも水伝の否定ではなく、「良い言葉をかければ必ずしもきれいな結晶ができるわけではない」ということだけである。それがただの偶然だというためには相当の回数の実験を繰り返さねばならない。そうでなければ「必ずきれいな結晶になるわけではないが、良い言葉をかけることには意味がある」という感想を持つ人が出てくる可能性は高いのではないか。そもそもN氏がそう考えている可能性すら否定できないではないか。つまり、いわゆる水伝は否定するがN氏流の水伝がある可能性は否定できないではないか。



なお、念のために言っておくけれど、これは俺がN氏はこれについて釈明すべきだと言っているわけではないニセ科学批判者ならそこまで追及するのが当然だろうと思われるのに、なぜそうしないのかという点について不審だということだ。



(追記)

実験により、水の結晶に変化の違いは見られたのですが、
再現性は確認されておらず、科学的根拠もまったくありません。

について。

しかし、彼らはその再現性のなさを逆手にとっているようだ。

「水からの伝言」をめぐって 菊池誠(PDF)

江本は『AERA』のインタビューに対して、『水からの伝言』のことを「<<ファンタジー>>あるいは<<ポエム>>である」、即ち 「(科学ではなく)物語である」 と述べた[27]。

水からの伝言 - Wikipedia
したがって「再現性は確認されておらず、科学的根拠もまったくありません」というのは水伝をなんら否定するものではない。


N氏が「水伝を否定するために行った実験」というものが何を証明するためのものだったのかは最重要の問題である。