日記

下等生物(という言い方には問題ありだけど)は、単純な鍵を外せば逃げることが可能であってもそれを理解することができない。外に出ようと脱出不可能な檻に突進するのみ。インコやオウムだと学習すれば鍵を開けて鳥かごから脱出することができる。記憶が定かではないけどテレビで見た面白映像では馬が出口を塞いでいる木を咥えて持ち上げて牧場から外に出るというのがあったと思う。かしこい。ところが万物の霊長たる人類において、複雑な(といっても別に超複雑というわけではない)問題を分けて考えることができないという人が思ってたよりも遥かに多いのではないかということを、最近のある話題の論争を見て思った。鍵を開けてから外に出ようというような思考ができず、つまり問題を分けて考えることができず、全てを一まとめにして考えようとする。たとえばある問題が発生して、その対応が問われるといった場合、(A)そもそも問題を発生させないことが出来たにも関わらず対策を怠ったという問題と、(B)そうはいっても問題が発生してしまったのだからどう対応するのか?その対応は適切だったか?という二つの問題がある場合。(B)の問題で(A)を論じてもほとんどというか全く解決の役に立たない。両者をつなげるのはそれぞれを片付けてからだろう。だがそれが理解できない。その結果、間違った答えを導き出してしまうだけでなく、さらに厄介なのは両者を一つにしなければならないので、事実をそれに合わせて歪曲してしまうことも起こる。そんな事実はないか少なくとも確認できないのにも関わらず、両者をつなげるための新しい要素が入ったストーリーが出来上がる。そういう人いるよねとは前から思ってたけど、あくまで少数で、そんなの誰も相手にしないだろうと思ってたんだけど、どうもそうではないらしい。そこら中に蔓延しているのではないかと思えてきた。なんか鬱々としてくるんだが、それは俺が見たのは特殊な例で、そこまで悲観するものではないかもしれないという希望は一応持っている。