⇒歴史記述について (内田樹の研究室)
内田樹という人間は、少し考えればおかしいことが明瞭な話を、小難しくて、それでいてどこかで聞いたことのあるようなもっともらしい主張を織り交ぜて語り、よく意味はわからないが結局のところ我々の味方なんだろうと思わせ(今回は反グローバル化、反橋下か)人々を魅了する「天才」である。「天才」といっても「頭が良い」ということではない。こんなことをまともな思考力のある人間が意識的に継続してやっていたら精神が崩壊するであろう。内田先生の場合は、偶然が産み出した様々な要因が組み合わされて形成された「天然の才」であろう。
誰もが嘘をついている。私もついているが、お前たちもついている。だから、誰もその嘘を咎める権利はない。
「この世に絶対的な正しさはない」とか「ポストモダンは何でもあり」とかいった系統の話だが、万人がそれぞれ別の歴史認識を持っていて各自がその独自の歴史認識を思う存分発揮させて誰にも邪魔されないなんてことは、一人ひとりが孤島に分かれて住んで自給自足の生活をしているとかいうので無い限りおよそ不可能だ(その場合子作りもできないので人類はすぐに滅亡するが)。
人と人が一緒に暮らしていれば歴史認識の衝突が起きるのは必然だ。
A「昨日地震があったよね」
B「え?そんなの知らないよ」
C「俺が昨日地震があったといってるのに否定するなんてとんでもないやつだ」
これで早くも歴史認識の衝突の発生だ。衝突しないためにBがAの話に合わせればいいじゃないかと思うかもしれないが、それだとBの権利が認められていないことになる。
「俺は昨日地震があったと思っている。でも君は地震が無かったという。どっちが本当なんだろうね。過去に戻って確認することはできないし、もうこの話はやめにしよう」というのは穏やかな解決法だが、両者が自分の歴史認識を引っ込めたということだから、これは「権利」が損なわれたということだ(だが、どちらが正しいかを判定することができない以上、平和的に解決する方法が他にあるだろうか)。
したがって
誰もが嘘をついている。私もついているが、お前たちもついている。だから、誰もその嘘を咎める権利はない。
などということは、口で言うことができてもおよそ実現不可能である。実現しえないことを憂えるのを「杞憂」という。
では、歴史認識が異なる場合は平和的な解決は不可能なのか?そこで「共通認識」ですよ。歴史認識が異なるといったって、何一つ共通するものが無いということの方がレアケースだ。むしろほとんどが同じで一部だけが異なるという方が一般だろう。だって同じ人類だもの。歴史認識が悉く異なると感じることもあるかもしれないが、それは共通認識が「当たり前のこと」としてカウントされていないからだろう。
両者がこうなった場合には地震が起きたと考えて間違いないと信じるものがあれば、それを利用して地震があったか無かったかを判断できるのだ。たとえば地震計があればいいのだ。地震計が昨日地震があったことを記録している。「だったら昨日地震があったのだ。俺は気付かなかったけど」と納得することができるのだ。なおこの地震計が間違っているという可能性もある。しかし両者がそれを信用しているのなら特に問題は無い。
これが二人ではなく大人数になっても同じだ。ただし人数が多くなれば、多くの人間が信用できる地震計が必要になり、精度を上げなければならない。そして精度が上がれば微弱な地震で誰も体感しなくても地震があったのだと認識することも可能になる。また、わざわざ各人が地震計を確認しなくても、専門の観測者が観測していればいいというようなことにもなる。
ところで、大人数になれば「あくまで地震は無かったのだ」と主張する少数者がいても、大多数がそれを認めていれば、それが「正しい」となるのである。少なくとも「暫定的に正しい」となるのだ。常に全員一致などということは不可能だからだ。これは単純な多数決ではないが、詰まるところ多数決だ(たとえば個別に投票すれば太陽が東から昇るということと、西から昇るということがどちらも多数になることもありえるがそれは許されない。なぜならそれは両立しないという共通認識があるから)。
「他人の物を盗んで何が悪い」と思っている人がいても「物を盗んではいけない」というのが共通認識である以上、心の中でそう思うのは自由だが実行すれば罰せられるのである。歴史認識は法律で罰せられることはないかもしれないが「正しい」ものはあるのだ。ただし「正しい」が通用する範囲は限定されている。その主要なものの一つは「国民国家」だろうが、それだけではない。
それは要するに「とりあえず今勝っているもの、今強者であるものが言うことがルールであり、私たちはそれに従うしかない」という事大主義である。
同じことが歴史記述においても起きようとしている。
そんなことはとっくに起きているのだ。そして我々は現実問題として多かれ少なかれ「従うしかない」のだ。それに対する反抗が「人にはそれぞれ歴史認識があり咎めるな」ということではないか。
※ この部分何を言っているのか意味不明だ。いわゆる「自虐史観批判論者」を「自虐史観論者」と書いていることからして、ここも「地大主義批判」と言いたいのだろうか?
まだまだ言いたいことはあるがとりあえず休憩。続けるかは未定。何しろ内田先生が何を言いたいのか(ご自身はそんなつもりはないのだろうが)意味不明で支離滅裂だとしか見えないなところが多々あるので疲れる。